国際教育27号TEXTヴァージョン

国際理解教育、開発教育研究実践誌

国際教育   第27号


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目次(読みたい題をクリックしてください)

各校での実践と交流を期待して ・・・・・・・・・・・・・伊川公司
国際理解教育と共に ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・矢田部正昭
 21世紀を共に生きるために ・・・・・・・・・・・・・・坂牧 嘉昭
 第1回教員研究協議会報告 ・・・・・・・・・・・・・・・報告・中原清朗
 インターネットによる国際交流
第2回教員研究協議会報告 ・・・・・・・・・・・・・・・・報告・浜砂千夏
料理からのぞくクメール文化
第3回教員研究協議会 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・報告・女屋隆充
アフリカの食と環境−アフリカは本当に貧しいのか
高校生のための国際交流研修会プログラム・・・・・・報告・宇治川 秀
 参加生徒感想文
国際理解教育の推進を目指して・・・・・・・・・・・・・・・・・・三宅英次郎
駒場高校の公開講座・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・宮田智子
聞いて見て食べる現代東洋事情」
CCC,ここにあり−異文化体験の楽しみ・・・・・・・小島義晴
'96開発教育を考える集いin TOKYO報告・・・・・・・・・・・斉藤 宏
豊かな自然とGNP100ドルの生活とのアンバランス・・・・斉藤 宏
ガーナの中等教育について・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・竹山哲司
豊かな食生活から「国際化」を考える・・・・・・・・・・・・・・・幸田雅夫
第34回全国高等学校国際教育研究大会実施要項
英語弁論大会要項 
「国際教育」のフロッピー(FD) 原稿依頼について



8月18日,19日開催(オリンピック青少年総合センター)
第34回全国高等学校国際教育研究大会要項掲載
ネットワーク社会の国際交流 、インターネット利用の可能性
国際理解、国際協力高校生ホームページコンテスト開催


     1997年(平成9年)5月1日
     東京都高等学校国際教育研究協議会
         (T.H.A.I.E)
 TOKYO HIGHSCHOOL ASSOCIATION INTERNATIONAL EDUCATION
    URL http://www2.baynet.or.jp/~saito/


 
     国際教育研究協議会の事業
 
  1.国際理解教育の研究
  2.海外事情の調査、資料の収集
  3.校内国際理解関係クラブ活動の育成
  4.外国関係者との親睦交流
  5.関係団体との提携
 



     各校での実践と交流を期待して
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                 東京都高等学校国際教育研究協議会会長
                     東京都立羽田高等学校長
            伊川 公司

 教育改革元年であるとか、高校の個性化・特色化への取り組みが、声高く叫ばれています。
社会が大きく変化するだけでなく、少子化の時代も迎え、高校に入学して来る生徒も実にさまざまな個性をもった人が多くなってきています。したがって、高校教育そのものも、より有効な在り方を求めて、大きく変化しなければならないことは、当然であります。
また、最近になって外国人の数が増え、学校にも海外帰国子女や外国人の生徒が入学して、国際交流が着実に深化している中にあって、教育の分野でも特に国際教育はこれまでの活動を再検討して、全面的に新しい研究活動に取り組まなければなりません。
本研究会も今回は事務局を強化すると共に加盟校の増加に取り組みました。おかげさまで年数回の実践につながる研究会活動でも、これまでにない多くの参加者を集めることができました。外国の家庭料理の実習を体験しながら諸外国の事情を学んだり、インターネットの将来の活用を考える研究会がそうでした。
また、この『国際教育』の内容充実にも努力してきました。
1年間でこれだけの変革ができたことは、斎藤宏事務局長以下の事務局の皆さんの協力と努力が大きいことをここに記して,謝に代えたいと思います。教育の成果は教師の持つ魅力が大きい力になるといわれますが,本研究会の活発な活動も,この情熱あふれる事務局スタッフ一同の魅力が、大きい支えとなっております。
同じ研究会活動をするにも、これまでの伝統や形式を大事にしつつ、さらに新しい勇気ある取り組みをこれからも進んでやって行って欲しいと願っています。 全国の会長として、さきほど神津カンナさんたちと「高校生エッセイコンテスト′96」の中央審査をしました。そのとき感じたことは、地方の高校生が在日外国人との交流や外国に旅行しての体験、交流を通しての真の国際協力の在り方について体験的感動的に語っているのに対して、東京の高校生の多くはマスコミを通して感じることや授業を通して国際協力を理論的に冷静に説いているのが多かったと思います。あえて分析をしますとそういう傾向があったように感じました。
地方の生徒諸君が、情報過多の東京の生徒諸君よりも、世の中を体験的にしっかりと見ていると思いました。したがって東京での各学校での国際教育は、今後途上国など外国の抱える問題や国際関係を、さらにより身近な問題として指導していただきたい。そこから生徒一人ひとりが自分なりの国際協力の形を思い描いて、将来の夢や志を現実のものにするようになっていって欲しいと思います。
東京都に居住する多くの外国人は、日本人との交流を望み、日本人の多くもまた外国人と直接触れ合うことを望んでいます。多くの外国人が身近に生活し、大使館等外国の機関が集中する東京の特性を生かし、学校だけでなく、家庭・地域における市民レベルでの国際交流が盛んになることを、これからの目標として欲しいと考えます。
昨年私のところに、国際キリスト教大学大学院の教育学を専攻する佐藤めぐみさんという方がたずねて来て、「国際理解教育に関するアンケート(教員)」の協力依頼がありました。修士論文のためのその研究のねらいは、次のようになっていました。

高等学校における「国際理解教育」の実践を困難にさせている要因を解明する。小学校や中学校では半分余りの学校が国際理解教育について学校としての取り組みをしている中,高校においては8割以上の学校がその必要性を感じているにも拘らず,その取り組みの状況は2割にも満たないとのデータが出ています。この違いの原因が何であるかを,現場の先生方の視点から探っていきたいと考えています。
このアンケートは、都内の公立・私立校から各80校を無作為抽出し、各校10名ずつと学校単位の記入も求めていますので、先生方の中にも協力していただいた方がおられると思います。この調査結果を楽しみにしているところですが、それよりも上記のねらいに注目しました。この2割の実践しかないという残念な現実を、これから何としても解決して行きたい。その先導となる研究会活動をこれから活発にして行きたいものです。





国際理解教育と共に
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東京都立農芸高等学校長
矢田部 正照
           平成8年度「都国際教育」の機関紙第27号が発刊となるここ数年は、「開発教育」に関するものの掲載が多くなり、知ることから、自らが行うとする時代の移り変わりを感ずる。 当時を振り返ると、この機関紙の第1号は昭和45年(1970年)となる。この年は、全国組織が当時の「海外移住事業団」(現JICA)の支援で設立された年でもある。合わせて、初代の稲垣実夫全国会長が、東京都の会長を兼務する形で発会された年である。この頃、稲垣全国会長(当時都立瑞穂農芸高校長)と同じ高校に勤務していた縁もあり,この会とは、以後30年近くお付き合いすることとなった。当時、教えを受け一緒に会務を担当した先生方も既に、現役を退き悠々自適の生活を送られており,時の経たのを感ずる。この会は,戦後,海外移住者の募集を行う目的で、海外移住事業団が実業高校の教員を集めて説明会を開催していたのが発端である。移住に関する啓蒙の方策として戦後,南米移住者を乗せた「アルゼンチン丸」や「ブラジル丸」に大阪から東京まで各都道府県を代表する教職員を移住者と一緒に乗船する便宜を図るなど移住に関する広報活動を行ってきた。
ところが,東京オリンピック後の国内 経済の安定するなかで、進路指導としての移住から,国際化が進むなかで「外国へ行く高校生の教育はどうするか」といった教科指導からの教育の重要性が問われるようになってきた。多少の経緯はあるが、主に文部省教科調査官、移住事業団職員等の支援を得てこの会が設立された。以後,会の存続は,代々続く会長(伊川会長は14代)と事務局を中心とした体制のなかで,設立当初では考えられない充実と発展を遂げて今日に続いているのである。
 次が、この機関紙「国際教育」であるが、当初は会の名称と同じ「海外教育」のであり、タブロイド版のたった2ペ−ジもので発刊した。紙面は少なかったが編集には苦労した記憶がある。冊子として発刊したのは佐藤勇夫会長の頃であった。当時は役員(校長が中心)からの要望が強かったように記憶している。そこで、切りの良い第11号(?)から冊子とし、研究会の報告書として形式を整えた。出版はしたが、印刷費の捻出には当時の同僚であった丸岡先生と二人で苦労したことを思い出す。
 会の名称についても設立当初「海外教育」略称を「高国教」として広く認識さていたが、昭和60年(1985年)会の目的からして、時代を先取りする形で「国際理解」とし61年から規約を改正して今日の名称とした。しかし、長期間使用した名称で、地方での反対が強く、しばらくは「海外教育」の名称を使用していた県もあった。その後、臨教審を始めとし学習指導要領の中にも「国際理解」とした文言が多くみられるなかで、全国的にも名称が統一されるに至った。 近年、当会として画期的なことは、永井實10代会長のお骨折りもあって、平成5年から東京都教育研究団体に認定されて、加盟費の公費支出が容易になったことである。長年の懸案であり歴代の会長が苦慮されていた問題でもあった。これを機会に事務局を次代に渡すことができた。まさに感無量である。



21世紀を共に生きるために
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       国際協力事業団関東支部長
                            坂牧 嘉昭

激動の20世紀も残すところ3年と9ケ月。1989年に東西冷戦構造が終焉を迎え、90年代に入り、旧社会主義体制の国々は一斉に、市場経済への移行へと動き始めました。来るべき21世紀の世界経済は正に「大競争時代」を迎えようとしています。
 一方、今、世界の人口はおよそ56億。もうすぐ60億人。2020年には80億に、2050年には100億人になろうと推計されています。果たして、私たち人類はこの地球上で21世紀を無事に生きていけるのでしょうか。地球は100億人もの人間や他の生物を養っていける力があるのでしょうか。
全ての生命体にとってかけがえのない惑星「地球号」を壊すことなく,限りある資源を有効に活用して。私たちが平和にかつ心豊かに生きていくためには,どうしたらいいのか?これは先進国,開発途上国の別を問わず,地球上の全ての人々がその知恵と努力を結集して取組み、対処していかなければならない緊急の「命題」です。
私たちの前には、「環境」「人口」「食料」「エネルギ−」「貧困」「人権」「医療」「福祉」「教育」「女性」といった数々の地球規模の課題(グロ−バル・イッシュ−)が横たわっております。「世界の平和的安定的発展」を目指し、「持続的開発」と「地球の保全」の両立を希求する人類の21世紀のキ−ワ−ドが、「地球市民」「基本的人権」「環境」「共生」と言われる所以です。
今や、地球が一つの社会であり、そこに生きる人々一人ひとりが「地球市民」であるという認識を深め、前進させていかなければなりません。貴協議会会報「国際教育」第26号の表紙にあるイラストは、正に「みんなの地球」を象徴的に表しています。
次の世代を担う高校生に対する開発教育・国際理解教育の重要性が近年広く認識されつつあり、日頃教育の現場でこれを実践し、研究されている先生方のご努力に、深く敬意を表するものであります。毎年、私どもJICAが実施している「高校生エッセイコンテスト」への応募も増え、内容的にも目を見張るものが多くあり、大変頼もしく感じております。
幸い、地方自治体の国際化推進大綱のなかで、「国際交流から国際協力へ」という認識が深まりつつあります。これは取りも直さず、国民の関心の対象が欧米先進国から開発途上国へと、移行ないしは拡大しつつあるものと考えられます。身近にいる青年海外協力隊の0B,OGや技術専門家の経験者、あるいは途上国からの留学生などを教室に招き、直接話を聞くことにより、生徒の途上国への関心を高めていただき、「理解から行動へ」向けてヒントを得ていただければ幸いです。
「東京都高等学校国際教育研究協議会」の皆様の益々のご活躍を期待いたします。
併せて、国際協力事業団への一層のご協力をお願いする次第です。




1回教員研究協議会報告
「インタ−ネットによる国際交流」
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報告:都立八潮高校 中原清朗
第1.研修会概要
(1)日時
1996年7月11日(木)13:30〜16:00
(2)会場
国際協力事業団本 部(渋谷区代々木 2-1-1 新宿マインズ タワー 11F)
(3)講演「インターネットによる国際   交流」
(4)講師 武田英成 : 
  Japan Digication
(インターネット教育研究会)事務局長
主として専門学校、大学、企業での、インターネット利用についての講演で活躍中。インターネット専門月刊誌「Yahoo Internet Guide (ソフトバンク) 」に定期連載中。インターネットの教育事例については、自ら「日本の専門学校」サーバを運用し、6月には「Cyber School」(大学、短大、専門学校、高校、フリースクールなどほとんどの学校情報を集約)を構築する予定。高校教育におけるインターネット活用にも積極的提言を行っている。前インターネットビジネス協議会事務局長、前FM Townsコンソーシアム・インターネット部会長


2.講演内容
(1)学校教育現場におけるインターネ ットの導入.活用について,学校教育現 場におけるインターネット導入場面と して考えられることとしては、
@学生募集及び学校広報というフェイズ
●就職−これがインターネットの浸透の 契機となるであろう。(日本を代表す るS社は、今年インターネットに通じ た学生のみ採用するとのこと。今後こ ういう企業が増えていくことが考えら れる。インターネットは、様々な場面 に積極的に生かそうとする姿勢が大切 である。
 インターネットを通じて企業情報の提 供があり、それに対して学生がインタ ーネット上で履歴書を提示する。今後 は自分の電子メールアドレスを持って いることが重要視されるであろう。電 子メールの利用によって、郵送料など の経費減となり、企業の利用も増大す る。
● 学校による「ホームページ」の開設。 学校からの情報発信ということで学校 案内や、同窓会の案内、生徒個人の内 容などに使っている学校も増えてきた。
●大学などでは、インターネット上で講 義要項の公開をすることができる。
A教育の方法と技術(教育活動の実践)
● 自分で情報を加工して教材化し利用す ることができる。例「ひまわり」から の気象衛星の写真−リアルタイムの理 科の教材として利用。
 実際に考えられる教育現場での活用場 面としては、各学校のテレビに自宅で インターネットから取り込んだ内容を コンバーターで接続して提示することができる。(これは著作権侵害とならない)インターネットのマルチメディアとは、パソコンを接続することにより、情報 を送ることができるし、取り出すこともできる。紙やCDROMは「パッケージ系マルチメディア」といい作ってから手元に届くまで時間がかかるが、インターネットは「通信系マルチメディア」といってリアルタイムに情報が届くのである。「文字」「音声」「写真」「動画」これらをひっくるめたものがマルチメディアであり、例えば英語の先生であれば、生きた英語の教材として使えるというように実際の授業の中に取り入れて活用していくことが可能である。
●ホームページで子供の描いた絵の展覧 会を開催(子供が描いた絵をスキャナ ーで呼び出して画面に投影)これによ
り外国の学校と絵の交換も可能となり、 国際交流にも一役買える。
(2)各校の現状.今後の課題.質疑
@各校の現状
● 生徒とフロリダの予備校のインター ネット上の交流
意見交換をするという意味で、週に 1回メール交換を行っている。時間と 空間を越えて利用できる。(晴海総 合高校 濱中啓子教諭)
●都立羽田高校では都からISDNの回 線を1回線認められた。
パソコン教室とLL教室からISDN を利用できるようになっている。
インターネットの理解のために、自分 たちのホームページを作成している。  WWWのアクセスが中心であり、英語の 重要性を認識している。(都立羽田高 校)
A今後の課題、質疑
●パソコン講習会の開催を希望している。 (羽田高校)
●アダルト情報に対する学校教育の場と しての対応が必要となる。(羽田高校)
●学校と都立大をつないで、留学生が本 国との情報交換に使ったり、短期留学 の情報を提供したりしている。(私立 晃華学園)
●学校内にサーバーが置かれていて管理 しているが、その負担が大きくなって いるのが現状である。これをどうした らいいか?(都立 新宿山吹)
●サーバーがあり、すべての部屋をネッ トワークでつなごうとしている。
生徒には制約なしで使わしているのだ が、いたずらのできる生徒もいるが、
そういう生徒達がサーバーメンテナン スをしている。特別な規制は設けず、 自己規律が育つ方に期待する。今後は 小笠原高校や区立中との交流も考えて いる。(都立 向丘)
●コネットプランを申し込んだ。濱中先 生にシラバスを教えてもらいたい。
  生徒が、実際にインターネットに活字 を打ち込んで送ったのかどうか、また、  どのくらいの時間がかかったのか(私 立錦城学園)?、
(濱中)2時間続きの授業の1時間でタ イプをさせる。まず、自己紹介から始 まって、内容的には一切関知せずとい う姿勢をとっている。
●インターネットを使った教材を効果的 に利用しているという学校があったら 教えて欲しい。(私立 大森工業)
(武田)例えば、会津大、稚内にある北 星学園短大など。外に向けた方が活用  できるのではないかと思う。
(3)まとめ
未来を担う若者への適切なナビゲーションと進路決定に、高校の先生の果すべき役割は、大変重要であろう。高校の先生が、デジタル、マルチメディア、インターネット、等に、否定的であることは
どうしても避けたいと、日頃の経験から
思っている。(武田先生レジメのまとめの部分より抜粋)とまとめられている。
 インターネットの教育利用は日本ではまだ始まったばかり、手探りの状態である。それだけに当日は70名近い先生方が会場に詰めかけ、予定の時間になっても質問が続出し時間をオーバーするほどの熱気であったことを付け加えておく。



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第2回教員研究協議会報告
「料理からのぞくクメ−ル文化」
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報告: 都立八潮高校(定) 濱砂千夏

1.概要
1)日 時 1996年12月13(金)
13:30〜17:30
2)会 場 都立京橋高校調理室
3)研究主題 カンボジア料理講習会
4)講 師 ロス・ソクラさん、
      ソック・トゥイポォウさん

2.内容
1)カンボジア文化紹介のビデオ観賞
1998年が「カンボジア観光年」であることから、盛んに観光プロモ−ションがなされている。今回は大使館からお借りしたビデオ(英語)を通じて、移り変わる新しい面と、国の誇りであるアンコ−ル遺跡に代表される伝統的な面を知った。
2)カンボジア料理教室
当初、講師に予定していたソック・クィンさんが研究会直前に急遽キャンセルとなった。慌てた事務局を救ってくれたのが、彼女の高校3年生の妹、ソック・トゥイポォウさんである。町田の有名なカンボジアレストラン「アンコ−ルトム」から料理の指導に来られたロスさんの手伝いと通訳をてきぱき勤め、時折座を盛り上げるサ−ビス精神と愛嬌に、参加者一同、感嘆しっぱなし。一方で、家族を大事にするクメ−ル文化の良さを母や姉から受け継いだことを誇りに思う、としっかりと語る彼女の口調には、最近すっかり意気消沈気味の我々日本人に対する痛烈な世相批判が込められていた。日頃、彼女と同年代の高校生を相手に教壇に立つ我々にとって、耳の痛い内容が多かったが、生の声を直接聞けたことは、今後の我々の、あるいは日本の方向性を模索する上でも、大いに参考にすべきだろう。その意味で、今回の研究会は、当初「料理」だけをメインに考えていた事務局側の予想をはるかに上回り、本当の意味での「研修の成果」に値する貴い何かを、参加者ひとりひとりに残してくれたと信じている。
では、講師の指導のもと、調理した3品のカンボジア料理を紹介しよう。

a.カンボジア・カリ−
材料:・とり肉(骨付)…1羽
  ・えび塩辛 ………………大1
  ・砂 肝 ……… 200g
  ・ココナツミルク…………1缶
  ・にんじん…………1本
  ・水 ………………………缶2杯
  ・さつまいも………1本
  ・塩 ………………………大2
  ・いんげん……1/2 パック
  ・砂糖 ……………………大2
  ・な す …………2本
  ・魚醤 ……………………適宜
   ・玉ねぎ …………2コ
・味の素(カンボジア)…適宜
材料(カレ−ル−):
   以下の材料は予めみじん切りにしてからミキサ−にかける。
・レモングラス
・パプリカ(今回は使用しなかったが入れても良い)
・にんにく
・カンボジア生姜
・ターメリック(黄色い色付けのため)
・タイのカレ−ル−
@とり肉は5pぐらいのぶつ切り、
肝は皮を剥いて適当な大きさに切る。 にんじん、さつまいもは2〜3pの大きさに切る。玉ねぎは粗いみじん切り。いんげんは、生のまま5pぐらいに切る。
A鍋に油を入れて、玉ねぎを入れ炒め香りを出し、とり肉を入れて炒める。更ににんじん、さつまいも、砂肝を入れて炒めたら、コオナツミルク1缶と水、缶2杯分を入れて煮る。
B材料に火が通ったら,カンボジア・カレ−ル−を入れる。更にえび塩辛,魚醤,塩,砂糖,味の素を入れ,味をととのえる。
Cなすを入れて煮、最後にいんげんを入れて煮えたら、ごはん又はフランスパン、そうめんと一緒に供す。

b.カンボジア・サラダ(ニョム)
材料:・キャベツ ………………1/4 コ
・ハチノス(牛の胃)… 200g
・ピ−ナツ
・きゅうり ………… 1本
・玉ねぎ …………… 1コ
・香草(パクチ−、ミントなど)
・レモン …………… 1コ
・カンボジア生姜… 少々
@キャベツは千切り、きゅうり玉ねぎは薄くスライス。
Aハチノスはやわらかくなるまでよく煮て千切りにする。
Bピ−ナツはミキサ−にかけ、細かくする。
C上記の材料と千切りにした香草を混ぜ、下記のドレッシングをかけて、和える。レモン汁をかけて供す。

c.ドレッシング:サラダにも、次に述べる春巻の付け汁としても使う。これはカンボジア料理には必ず出てくる付け汁。
材料:・湯 ……………… カップ4
・魚醤・酢………… 各大4〜5
・にんにく・とうがらし各2〜3コ
・味の素、塩、砂糖……… 適宜
@にんにく、とうがらしはみじん切り にする。
A沸騰した湯の中に魚醤、味の素、塩、 砂糖などの調味料を入れ、少し冷め てから、@と酢を加える。


d.カンボジア春巻
材料:・豚ひき肉………… 200g
   ・春雨 …………………少々
   ・しいたけ…………3枚
  ・春巻の皮 ……………10枚
・干しえび…………少々
   ・ピ−ナツ ……………少々
・玉ねぎ………… 1/2コ
   ・塩、砂糖、味の素……適宜
・にんじん……… 1/2本
  ・揚げ油…………………適宜
@春雨は湯の中に入れ戻し、小さく切る。干しえびは水で戻す。
Aしいたけ、玉ねぎ、ピ−ナツ、干しえび、にんじん、はみじん切りにする。
B塩、砂糖、味の素で調味する。
C春巻の皮は図のように、4つに切り、小さいロ−ルに巻く。巻き終わりは、 水解き片栗粉でとめ る。
D油で揚げる。




3.カンボジアと自分について(質問に対する答えも含めたソックさんの話)
カンボジアでは、男は一生に一度は修行僧になるのが親孝行で、女は朝早起きして僧侶へ供物をささげる。自給自足の生活で、素朴でのんびりしている。心は広く温かい。カンボジアのことわざに「家は狭くても心は狭くなってはいけない」というのがある。日本は平和で物質的に何も不自由しないが、心の広い人が少ないと思う。
今でも農村部では結婚相手は親が決め、自由に相手を選ぶことはできない。昔は女は結婚までは部屋から一歩も出てはいけない、という習慣があった。
 日本に来ている難民家族内での問題は、親子間のコミュニケーションが成立していない例が多いこと。子供は日本語で、親はカンボジア語で互いに会話している。そういった家族では、お互いを理解し合えない結果、トラブルが起きている。姉は通訳として、そのような状況を改善すべく頑張っている。姉が通訳になって1年たった頃、ある母親から電話があり、自分の娘がカンボジア語を理解できるようになった、とお礼を言ってきた。私も通訳になって姉のような仕事をしたい。
困ったことは、例えばアルバイト先を探していて電話をかけ、名前を告げる段になると決まって、向こうはいぶかしく思うのか、断られる。道を歩いていても、明らかに私の顔を遠目に、何か変なものを見るような目で眺める。この前も制服姿の時、「外人ですか?」と声をかけられた。今では日本人も私から見れば外人なんだ、と開き直っている。
日本の若者は老人を大切にしない。親にさえ乱暴な言葉遣いをする。また人が困っていても、見て見ぬふりをする。助けようとせず、自分は自分、他人は他人、と割り切っている。心が狭い。テレビドラマ「ドク」を見て大い に共感した。日本の教師に言いたいことは、「もっと外国人を知ってください、心の広い人になってください」ということです。私も心の広い人間になりたいと思っている。高校卒業後はカンボジアに一時帰り、カンボジアの文字が書けるようになるまで勉強し、小さい頃からの夢である通訳を目指したい。皆さんも応援してください。

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「第2回カンボジア料理講習会」感想
都立京橋高校 英語科 佐藤眞理子
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十年以上も昔の話です。ホームステイ先のサンフランシスコの小さな町で、
“日本料理の即席講師”を頼まれたことがあります。さて一体何を作ったらいいものやら、考えに考えて、“カツ丼”と“テンプラ”(今思えばなんとアンバランスなメニュー!)を集まったアメリカの方々の前で作らせて頂きました。
「大雨と日本人は太平洋から押し寄せてくる。」と言って、私に(日本人に)怪訝な視線を送っていた老紳士が“おいしい、おいしい”と言ってカツ丼をペロリと平らげ、その後特製パンケーキを作ってご馳走してくれたのもとても良い思い出です。
“食”には不思議な力があると思います。それなしには生きて行けないという人間の、深く強い共通点がその源なのでしょうか。その国の料理を食べることが、その文化や歴史に触れること、そんな気持ちにさえなります。
今回、私にとっては、遠い国であったカンボジアの独特な料理に出会い、そして、何ともattractiveな講師の方々とお話することが出来、カンボジアは一気に“親しい国”になった様に思えます。
この様な素敵な会を企画して下さった国際研の方々に感謝しております。


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第3回教員研究協議会報告
アフリカの食と環境-アフリカは本当に貧しいのか
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報告:都立多摩工業高校 女屋 隆充

1 研究会概要
(1)日時:1997年3月13日(木) 
14:00〜17:00
(2)会場:国際協力事業団本部会議室
(渋谷区代々木2−1−1新宿マインズタワー11F)
(3)講演:「アフリカの食と環境」−アフリカは本当に貧しいのか−
(4)講師:勝俣 誠先生
(明治学院大学国際学部教授)
1946年東京生まれ。早稲田大学政 治経済学部卒、パリ第一大学博士 課程修了(開発経済学博士)。ダ カール大学、モントリオール大学 客員教授を歴任。著書に『現代アフリカ入門』(岩波書店)『アフリカは本当に貧しいのか−西アフリカで考えたこと−』(朝日選書)など。他に訳書も出されている。



2 講演内容骨子
(1)社会科学についての3つの視点
 現在インターネットなどが発達し、情報は手軽にたくさん入手できる。しかし、この状況が「おもしろさ」に結びつかず、かえって問題を見えにくくしていると考えている。視点が定まらず、情報負けしているとも言えるだろう。
 これを変えるためには、基本的な枠組みをしっかり理解することが必要である。まずはじめに、社会科学を学ぶ上で大切な3つの視点を示したい。
  @人生−生きること
  A生活−経済学的分野 
  B生命−自然科学的分野
 これらは、以下のように関連している。

         人

         生

       命    活

 西アフリカではいわゆる「学額」にとらわれず、現地を歩き、幅広く見る訓練を行った。次に、この経験などから得た5つのキーワードを説明したい。
(2)食と環境をめぐる5つのキーワード
  @生産する(つくる)
 我々は、「生産する」というと工場生産をイメージしがちである。そして、生産的行為を近代的行為としてとらえ、富を生み出すことに結びつけてしまう。しかし、本来の「生産する」という概念は、「自然と人」・「つくる人と使う人」の関係をふまえた行為であり、単純なことではないのではないか。
 このことは、西アフリカで生活に必要なものをほとんど現地調達した経験から実感できた。ここでは「つくっている人」と「使う人」の関係がよく見えた。自然がつくったものを人間が取り出している。「つくる」を意味するproduceはproducereというラテン語に由来するが、これを考えてみても我々のイメージの限界がわかる。また、生産を創造という言葉で結びつけることも疑問である。創造とは、神のみが行いうることであるからだ。
  A富
 富というと、たくさんのお金を持っていることと考えがちである。しかし、このような数字上の富には内容がないと考える。本当の富とは、生活や自然に密着したものを指すのではないか。従って、単純に等価交換できるものではないのである。
 西アフリカの農民たちは、土地を自分たちを育むものと考え、そこに密着した生活を営んでいる。重農学派(フィジオクラート)の立場によると、農業こそ富を生む原動力で、工業で行われる「モノづくり」は「すでにあるモノ」の形を変えるだけ(加工業=transform)であり、商業はモノを運ぶ役割を担うだけ(transport)だとしている。西アフリカで、この見方を再認識した。
  B市場(しじょう)
 市場(しじょう)と市場(いちば)は、一般的に混同されることが多いようだが、明確に異なるものである。先進国(日本)では、市場(いちば)が消失し、市場(しじょう)の力が強くなっている。戦後見られた小規模な商店街に代わり、あちこちで大型店の開店が進んでしまった。その結果、人のつながりは見えなくなった。一方、途上国では市場(いちば)が人々の生活を支えている。ここではその土地ならではのモノが売られ、人のつながりがはっきり見える。
 我々は、生命を支える活動としての経済をイメージするとき、一般的に市場(しじょう)の存在を不可欠なものと思いがちである。確かに多くのモノは、市場(しじょう)を通り、価格がつけられ売り買いされていく。しかし、現実には市場(しじょう)を通らないでモノが動くこともある。日本のお中元などの「贈与」がこれにあてはまるが、このような場合は、価格は存在せず、その価値は人間関係によって決まる。
 西アフリカは、まだいわゆる社会的しがらみが強く、人間関係によってモノが動くことが多い社会である。ここでは、労働の対価としての報酬という価値観は希薄である。書類を整理する仕事を頼んだときも「助けてくれたお礼」としていくらか支払うかたちを取った。個人の概念は確立しておらず、例えば土地の所有権という概念は存在しなかった。
  C開発
 西アフリカには、西欧の進出以前は開発という概念はなかったのではないか。いわゆる西欧的な生活に近づこうとすれば、現金が必要となり、開発をせざるを得なくなる。こういった流れがいわゆる「リゾート開発」にも結びつくのだろう。
 ところで、仏教には自己啓発をし、内的世界を充実させることを意味する「開発(かいほつ)」という概念がある。日本でも開発(かいはつ)が盛んになったのは新田開発以降である。
  


Dグローバル化
 この言葉は「経済の」などという言葉と結ばれることが多く、しかも最も儲けている国や人々によって使われるようだ。しかし、実際はグローバル化で得られることより失われていることの方が多い。確かに莫大な資本や情報、人間が投下され、経済的には活発に動く。けれども、環境は悪化し、伝統が失われてしまう。 西アフリカでは、大量に安いコメが輸入され、農民たちは伝統的な農法で米作りをする気力を失ってしまっている。彼らは、自分たちの畑のほかに港の畑があると言っている。この結果、落花生に依存する状態は続き、モノカルチャー経済は変化しない。人々の思考もピーナッツ依存という状態が変わらないのである。(発想のモノカルチャー状態か。)
 西アフリカでは、地域的自由競争が必要で、グローバルな自由競争は地域を壊すのである。
(3)現在の認識と将来の展望 
 万物の商品化が進行しているのが現在の認識である。このことは、あらゆることが現金収入へ結びつけられているともいえよう。この現状に抵抗するために、以下の2点を提示したい。
 @経済=市場(しじょう)という見方 を変えること
 市場(しじょう)優先のあり方への現実的対応が必要である。市場経済が突出した現在の状況は、社会・環境を飲み込む勢いである。このまま放任しておかず、社会の中に再度市場経済を管理(調整)する方向を模索すべきだろう。
 A自由時間の増大
 ここでいう自由時間とは、貨幣支出を伴わない時間のことである。西アフリカでは食事の後、人々が集まり2〜3時間ゆっくりお茶を飲み、しゃべっている。この過ごし方なら、輸入するお茶と、いくらかのたばこくらいしか貨幣支出を必要としない。日本で考えるならば、最近いわれるボランティアもこの時間の過ごし方としては有効だろう。西アフリカの人々は、乾季には人間関係を耕し、雨季には土地を耕すという考え方がある。参考にすべき価値観である。

(4)スライドとOHPの上映
 1時間余りの講演の後、勝俣先生が撮影されたスライドが先生の説明付きで上映された。内容は、柵のないサバンナの畑やカカオ・コーヒー、砂漠化の進行の様子などであった。
 スライドの後、OHPによる説明があった。要旨は以下の通り。
 アフリカは、東南アジアと異なり、海洋により情報交流が難しい。かつての「王国」は、内陸部にもあったが、現在ほとんどの国の首都は海岸部にある。これは、欧米に目を向ける(向けざるをえない)証拠ではないか。再び内陸へ人とモノを動かす為には、地域内で生産し消費できるスタイルが必要である。一種の保護貿易的形態と考えてよい。

(5)ババカール=バー氏を交えた質疑応答
 バー氏は、都立八潮高校定時制の関係
でいらしたようだ。ダカール出身で、フランス語・英語を教える。氏の奥さんは、アメリカで知り合った日本人だそうである。話題にのぼったことは以下の通り。(通訳を勝俣先生がして下さった。ほとんどフランス語)
 ・ピーナッツは、世界第3位の生産国である。良質なものはほとんどヨーロッパに輸出している。
 ・ピーナッツオイルは日常に用いる。ティエブジェンという料理が代表的。魚(チョフ=日本のクエ)と米の料理である。
 ・ピーナッツはヨーロッパ人が植民地化の時に持ち込んだ作物。
 ・「アフリカに食料なし」とは、ほとんどの場合当てはまらない。なお、食文化の違いは、南北の比較で見るとよくわかる。
 ・西アフリカでは、冷蔵庫が普及していないが、毎日市場(いちば)に通うため、かえって新鮮なものが手にはいる。市場(いちば)の人と顔なじみになり、人のつながりは密になる。市場(いちば)の人も評判が落ちないようにいい加減なものを出せない。
 ・西アフリカでは,食事を少し多めに用意しておくようだ。食事時に訪ねていくと、必ず「食事をしていきなさい」と誘われる。物質的な貧しさよりも友人がいないという精神的な貧しさを重んじるようである。

3 感想
 推測だが、西アフリカは、統計上では決して豊かな地域とはいえないのではないか。しかし、人々のつながりの強さやゆったりとした時間の使い方がもたらす効用などまで含むと、この評価はどうであろうか。歴史観もそうだが、統計上の評価も一面的なものでしかない。確かに数字は客観的ではあるが、それを鵜呑みにする危険性を感じた。価値観が多様化し、何をよりどころとすればいいのか見えにくい現代である。だからこそ、発想の質が問われると思うのだが、その根底にフェアーな人間観と、他者への率直な共感があって欲しいと改めて考えた。


高校生のための国際交流研修会プログラム
「歌って踊って肌で感じる国際交流」
──────────────────────────────────────────
報告 都立大泉北高校 宇治川 秀


1.研修会概要
(1)日 時 1996年11月9日(土) 9:00〜17:00
(2)場 所 東京国際研修センター (TIC)
(3)内 容
  午前:日本ユニセフ協会による講演とVTR
  昼食:エスニック料理
     (タイ風メニュー)
  午後:@エンディングハンガーゲーム
A太平洋諸国の留学生による歌と踊りの交流
(4)参加者 生徒34名
(府中西、科学技術学園、小川ほか 計12校より)引率教員14名
(5)参加費 1,500円(昼食、資料代)

2.日本ユニセフ協会の講演とVTR
講師 日本ユニセフ協会
海老原 隆 一氏
戸 田 ちえ子氏
(1)VTR「子どもの権利」
1989年11月20日、国連総会で採択さ れた「児童の権利に関する条約(子ど もの権利)」では、大きく分けて次の 4つの権利が保障されている。

@生きる権利……栄養、衣食住の確 保など生きていくの に最低限必要な権利
A育つ権利………教育が受けられ、 思想、良心、宗教の 自由が保障される
B守られる権利…あらゆる種類の搾 取や虐待から保護さ れ、障害児や難民、 少数民族など弱い立 場にある子どもこそ 保護される権利
C参加する権利…子どもが自由に意 見をあらわし、地域
社会で積極的な役割
を果たせる権利

(2)「静かな緊急事態」

 
    5才の誕生日を迎えられずに       
     死んでいく子どもの数         
                        
        @開発途上国……年間1200万人  
        A先進工業国……年間 9万人   

┌──────────┐
│    死亡原因     → 90%以上が風邪をこ
└──────────┘    じらせて死亡

予防接種で守れる命なのに
(ひとり分6種類で15ドル)
 1日になおすと3万3000人近くの開 発途上国の子どもが死んでいくことに なる。これは毎日ジャンボが100機落ちている状態である。社会の関心を集 めることなくひっそりと、世界のあち こちで起きているこれらの事態をユニセフでは「静かな緊急事態」と呼んで いる。



(3)スライド「ユニセフの活動等」
ユニセフの活動資金は、1995年度で 約10億ドルで、その が各国政府出資で、  が一般の人々からの募金である。
活動は、次の6項目である。

@保健
子どもの命と健康を守る
A栄養
バランスのとれた栄養を十分に
B水と衛生
C教育
2000年までにすべての子どもたち が基礎教育を受けられるように
D特に困難な状況にある子どもたち ストリートチルドレン、児童労働
E緊急救援
武力紛争の中にいる子供たち
自然災害時

活動の基本的スタンスは、「現地の 人が自分たちでやる」ということであ る。
例)井戸をつくる あとは
薬の管理 自分たちに
栄養士の育成 まかせる

さらに、地雷(バタフライ)を提示 しながら、1個取り除くのに10万円か かり、取り除くのに1000年以上かかる 問題などが報告された。

(4)ゲーム「悪循環の打破」
4人位のグループに別れる。
《ルール》
ステップ1 8枚のカードを「貧困」 からスタートして、おこ る影響順に時計周りで並 べていく。
@ あるグループの発表
  スタート
┌────────────┐
│     貧 困      
└────────────┘
               ↓


┌────────────┐ ┌────────────┐
│    不十分な収入           食料不足   
└────────────┘ └────────────┘
↑ ↓
┌────────────┐ ┌────────────┐
│     失 業               栄養不足   
└────────────┘ └────────────┘
↑ ↓
┌────────────┐ ┌────────────┐
│     職業技術             健 康     
└────────────┘ └────────────┘
↑ ↓
┌────────────┐
│     学 校     
└────────────┘

ステップ2 この悪循環をたち切る 方法を自分たちで考えて 書く。

A あるグループの発表
┌────────────┐  ┌────────────┐
│    栄養不足         →      健 康   
└────────────┘↑ └────────────┘
               医療技術
            病院・医者を送って改善

《まとめ》
□ 正解があるわけではない
□ 悪循環をたち切ることがユニセフ の仕事・活動
□ 募金で緊急支援をしているのでな く、ユニセフが大切に考えている ことは、「開発途上国の人々の自 立を支える」ことである
(5)「命の水」をつくろう
経口補水療法(ORT)を体験
げりがひどくなると脱水症状で死ん でしまう。これを防ぐ方法が経口補水 療法。水分が体に吸収されやすくなる。 これが3リットルあれば重傷の子どもも 救える。ユニセフでは、母親に家庭で できることを教えている。
┌───────────────────────────┐
│     家庭でつくる ORT              
│     @ 安全な水(沸騰消毒) 1リットル      
│     A 砂糖 小さじ8はい              
│     B 塩 小さじ1はい              
│     C @、A、Bをかきまぜてできあがり      
└───────────────────────────┘
経口補水塩(ORS)1袋=約10円
(6)VTR「私達を忘れないで」
開発途上国の子どもたちについて、 水汲み、燃料の調達に従事している子 どもの現状を紹介。
(7)質疑応答
Q 募金の使い道は?
A ニューヨークのユニセフ本部に送 られて、それから用途別に使われる
Q 1年に集まる募金額は?
A 日本で 45億円
世界で1000億円
Q 地雷は先進国が作ったのか?
A 旧ソ連が冷戦の時作った
武器マニアによって世界にまかれて、 安価に作られている
日本も地雷を持っている
3.昼食「エスニック料理」
┌────────────────────────────┐
│ メニュー                       
│ タイ風ココナッツカレー                 
│ ベトナム風 小春巻き                  
│ タイ風さつまあげ                    
│ デザート、ドリンク                   
└────────────────────────────┘



4.エンディングハンガーゲーム
講師 日本ハンガープロジェクト
安 斉 一 真氏
岡 崎 邦 雄氏
金 子 憲 勝氏
津 田 彩樹子氏
吉 井 大 介氏
(1)ゲーム活動
このゲームは、飢餓のない世界を創 り出すことを目的に活動しているNG Oが作ったものである。
国によって貧富の格差があるという 世界の現実を知り、人々が協力しあえ ばこの現状を変えることが可能だとい うことを1枚の巨大な世界地図の上で 体験するゲームである。



5.太平洋諸国の留学生による歌と踊り 講師 青年海外協力隊OB
岡 本 義 久氏
PIFA(留学生交流団体) 所属の留学生
アルバタ(フィジー)
フィリス( 〃 )
メイ ( 〃 )
ルビー ( 〃 )
岡部ララ(西サモア)
ノーマン(パラオ)
ベンソン(ミクロネシア) モアナ ( 〃 ) ロペスノボリビス( 〃 ) ボビー (ソロモン)

(1)グループ別交流
□ パラオでは、戦争の影響で日本語 も使われている
□ 留学生には漢字が難しい−音訓
□ フィジーは、アメリカの影響を受 けた授業
□ 日本の高校の校則は厳しすぎる
□ ダンスは結婚式や正月に踊る

6.参加者の感想より
□ 留学生の日本語がとても上手
□ 私も外国語を頑張りたい
□ 外国人と話ができて満足
□ ユニセフのおかげで世界の現状を 学べた
□ 青年海外協力隊になる決意をした
□ 募金するだけでなく考えていきた い
□ 国際関係のことなど知らないこと がこわいこと。みんなに知ってもら う大切さを感じた
□ エンディングハンガーゲームは、 50人でも大変なのに地球規模にな ったら本当に難しい。目標を持て ばチャンスがあふれている。毎日 気づかないでいる。これからチャ ンスを生かしていく

7.  参加生徒の感想文

国際交流研修会の感想文
都立府中西高校 3年 K.A
僕は外国の文化にとても興味を持っています。前から他の国の人と話すことなど、積極的に交流したいと思っていました。でもなかなか普段の生活では、異文化の人と接するチャンスがありません。そこでこの国際交流研修会にはぜひとも参加しようと思いました。
この研修会では僕が今までに知らなかったことが、世界ではおきているというということをユニセフの関係者を通じて学びました。いろいろなビデオや資料などを使って,詳しく説明してもらいました。
その中で僕がとてもショックを受けたのは、開発途上国で5才の誕生日を迎えられない子供が、年間1200万人もいたことです。しかもその子供達はわずか数十円の予防注射や抗生物質の投与を受けられずに死亡しているのです。普段何気なく使っているお金で、人の命が救えると思うと、心が痛みます。
そのような事実を知っても、毎日の生活で服を買ったり、雑誌を買ったりしてお金は使います。でもその事実を知ることができたということは、僕にはとてもよいことだと思いました。街角でよくやっているユニセフ募金にも「少ししかお金持ってないから止めよう」と思ってお金を入れないことが、よくあります。だけど数十円で子供一人の命が救えると知ったので、100円や、200円でも募金しようと思えるようになりました。
「国際交流」とは各国々の言語、文化、宗教などを互いに理解し合って、仲を深めるものだと考えていましたが、それに加えてその国がかかえているさまざまな問題が、今回でいえば「貧困」などを考えることも必要であるのではないかと思いました。
そして僕たちの若い世代の人がもっと現在の地球上でおこっている様々なことを知るべきだとも思いました。知らなければ何も行はおこせません。今回の国際交流研修会ではとても色々なことを学ばさせてもらいました。


国際交流研修会に参加して
都立府中西高校 1年 M.S
私は前々から飢えや戦争に苦しむ海外の人の助けに少しでもなりたい、と思っていました。そのきっかけともなったのは、洋楽のトップアーティスト達が集結して作った曲「We are the world」です。皆が平和な地球を作っていこうと呼びかける歌に感動し、私も大きく役立てる人になりたい、と強く思っていました。けれど無知識な私はユニセフやチャリティー番組の募金があればする、という程度で、何故日本とこんなに食料事情が違うのか、また他に自分にできることは何か、ということを何も知らず、疑問だけがありました。だからこのような機会に参加できたことをとても嬉しく思います。そして周りに自分と同じような考えを持っていた高校生がたくさんいたことがわかって、勇気づけられました。また、普段絶対に話すことなんてできない国の人を囲んで話をする、ということも今までにない経験で、たくさんのことを知りました。日常使われる日本語があること、日本は非常に寒くて、初めて見る雪に驚いたこと、(それでも何故女の子はミニスカートなの?と不思議そうでした。)他の国に比べて日本は個性がないということ……。いわゆる「外人」の目に映っている私達の国、日本を教えてくれました。それに、ユニセフやNGOの熱意のある講義も素晴らしかったです。
私は本当にこの研修会に参加してよかたです。“よりよい地球をつくろう”と思う気持ちをもった人達に会い、話すということで、自分もどんどんその気持ちが大きくなっていきました。これから先、現実から目をそむけないで、一生懸命生きうとする外国の人たちの役に立てるよう、もっともっと頑張ります。そして、いつか必ず全ての民衆が食卓を家族で囲んで食べ、人間として当然与えられるはずの権利を尊重されるような世界が出来ることを願っています。また次の機会があれば絶対に参加しようと思います。

国際交流会
都立山崎高校 2年 J.I
国際交流会に行って子供の権利を知った。その中に「生きる権利」「育つ権利」「守られる権利」「参加する権利」の4つがあり、全てあたりまえののことだと思いますが主張されていないのです。5歳の誕生日を迎えられず死亡する子供は1200万人もいますが、弱い子供は風邪や下痢といった簡単な病気で死んでしまいます。きれいな水やトイレがあれば防げるのです。下痢による脱水死から命を守る「命の水」というのもあります。たったの10円で買えるし、湯ざまし、砂糖、塩をかきまぜて作ることもできます。全ての母親が知っているのなら半分の子供は助かるのです。そういう情報もすごく大事だと思います。
エンディングハンガーゲームという飢餓のない世界を創り出すことを目的にしたゲームをやりました。小人数でやったけれども、貧富の格差があるという世界の現実を知ることができました。食べたいだけ食べられる私たちには考えらませんが、実際は今日生きていくのに必死になっているのです。今でも3人に1人は栄養不良のため健康を維持できず勉強を続けることが難しく、仕事に必要な技能を習得する機会も得にくいのです。そうして仕事に就くこともできないので不十分な収入のため、結局貧困が生まれてしまうのです。
ユニセフ募金と考える人も多いと思いますが、ただ募金をすればいいのではなく、ハートが大切なのだと思います。世界中の人が今の状態を知ることが大切です。すべての子供たちが心も体も健康に育つことができるよう飢餓から開放された世界を創り出そう!!

「研修会に参加して」
都立小川高校 1年 Y.T
僕は、今回の研修会に参加して、いままで自分の考えていた開発途上国の問題について大きな間違いがあったことに気がついた。僕は確かに小学校や中学校でユニセフ募金の活動をしてきた。もちろん今、通っている高校にも募金活動はある。しかし、どうであろう本当に募金をすることだけが、開発途上国を救う手助けなのだろうか。いやそうではない募金をする前に、どうしてその人達は、困っているのか、どんな生活をし、そして何より一番大切なのは、その人の立場になり、自分がもしその場にいたなら、どんなことを思っていただろうと、もっとこの問題を身近に感じなければならないのです。僕らはたまたま地球に生存する
“日本人”として生まれてきたわけです。この言葉には大きな意味が含まれているのです。それは、“豊か”だということです。僕らは豊かだから、自由にそして、のびのびと生きることができ、夢に向かってはばたくことができます。事実そのことさえできない僕たちの家族がこの世に多すぎるほどいるのです。学校も行けない字も読めない、このことを聞いてたいていの人は、「悲しそうだね。」で終わってしまいます。そんなことでいいのでしょうか、人間はみな平等に生きる権利があります。そのことに一人一人がきがつかなければ、まず、世界中が平和に暮らせる日々は考えられないでしょう。しかし、研修会に参加したわけですから、それを一緒に考えることのできる仲間ができたわけだから、僕らは、何かしらの形で、一人でも多くの人に伝えなければなりません。そして、みんなが平和に暮らせるような行動をおこさなければならないのです。それが僕達いや、この地球に住んでいるものの義務だと思います。最低限の生活さえできれば本来ならば、何もいらないはずなのです。しかし、日本を例にあげてみるとどうでしょう。社会的地位などを高くするために勉強する、今でいう学歴社会と言いますが果たしてそんなものが本当に大切なものなのでしょうか?僕は、今なら胸をはって全国民に言えます。確かに一定の学力は必要だと思います。しかし、それを、ただ仕事のためだけに使い、年をとって退職してしまえば何も残らないのです。しかし、僕らがその学力を援助を必要としている国々に注いだならばきっと今よりかは、進歩した開発途上国になっていたでしょう。そうやることには、大きな夢があり、時の流れとともに、僕らに幸せをふりまいてくれるはずです。まずそういった組織図を描いて、多くの理解を求め、生きるとはどういうことなのか、命ってなんなのか、真剣に考える人を集め、動きださなければ、そういったことを伝えていかなくてはいつまでたってもかわりません。政治ももっと今の日本のことよりも、幸せな、平和な毎日をおくるためにはどうすればいいのか、もう他人事ではなくなってきています。深刻に考えるべき問題なのです。僕は、この研修会の中で決心しました。今なにかを起こしたとしてもなかなか理解をしてくれないかもしれません、しかし、どこかでこの意識を誰かが別の方向に向けていかなければならないのです。僕はその一員となり、一人ずつ、そして、大きな力にして、一日でも早くみんなが平和に暮らせる日々と、それを僕らの下の世代にうけついで習慣づかしていかなくてはいけないのです。もし、世界中が平和になっても、「それじゃー後は何もしなくていいや。」じゃなくていつまでも、他国を身近に感じお互いを理解していくことで、平和というものを保ちつづけなければいけません。今からでもけっして遅くはない。そういう考えをもっている人や、自分も変わってみようと思った人は、一緒に手を取りあって、生きててよかったと思えるような日をめざしてがんばっていきたいと思います。

生徒向け研修会に参加して
都立小川高校 2年 T.S
私は、今回の生徒向け研修会に参加する日まで、自分はかわいそうな人間だと思っていました。いつもやりたくない勉強をやらされたり、他人と比べられたり、自分は何のためにこの世の中に生まれてきたのだろう?と、社会に背をむけて、そんな事を考えてばかりいました。だけど、生徒向け研修会に参加し、アフリカなどの開発途上国では、食べ物がなく、五歳の誕生日を迎えられずに死亡してしまう子供が年間千二百万人もいることや、小学校へ通えない子供が一億三千万人もいるということを学び、「自分は食べたいものを食べて、学校にも通えて、五体満足な暮らしをしているのだろう。」と、反省せずにはいられなくなりました。
この研修会で一番驚いた事は、げりによる脱水死から命を守る水(ORT)が、自分の家で簡単に作れるということです。私が普段なにげなく生活している間に、幼い子供が、げりによって亡くなっています。でも、その水があれば命が助かるということを知り、私にもできることがあるんだな、とほっとしました。それに、100円でノートを16冊、ORTを6袋、学校菜園で育てて食べるためのレタスを3袋与える事ができることを知り、みんなが協力すれば、この悲しい現状を変えられるのだという事がわかりました。
今回の研修会で、一番考えさせられたのは、「理想と現実」という言葉でした。私はこの言葉が嫌いでした。高校受験の時、先生に、「理想と現実はちがう。行きたい学校ではなく、行ける学校に行きなさい。」などと言われたことがあったからです。その時私は、自分がやりたい事・将来の夢を全てかきけされてしまったような気がしました。私にとって、「教師」という職業は、勉強を教えたり、生徒と生徒を比べたりするのではなく、生徒一人一人に夢を与える、たとえ理想と現実が違っても、その現実を理想のものへと近づけるために生徒達にボランティアをしてあげるような、そんな仕事だと思いました。
今回学んだこの悲しい現実を、飢餓のない、世界の一人一人が幸せになれる、そんな理想のものへと近づけることは私達にできないのでしょうか?「いえ、この世界に暮らせる一人一人が協力し合い、助け合っていけば、必ずできることです。」こうおっしゃて下さったのは研修会の方々です。私にとって、この研修会で出会った人達は、みんな「教師」だと思いました。たくさんの人と出会い、その人達に助けられて、今の自分がいるのだと思いました。こう考えると、自分はかわいそうな人間だなんてとんでもないと改めて思いました。私は、国に恵まれ、家庭にも、みんなにも恵まれているのに。私は、研修会で出会った教師に与えてもらった夢を、少しでも、飢餓で苦しんでいる開発途上国の難民に与えられる人間になりたいと思いました。そして、毎日、食べられること、健やかに暮らせることに感謝して生きていこうと思いました。人間が人間らしく生きていける、二度と戦争のない、美しい世界をつくっていけたらいいなぁと思いました。

国際理解教育の推進を目指して
−外国人とのインタビュー
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台東区教育委員会指導主事
(前東京都教育庁指導部高等学校教育指導課)
                        三宅英次郎

1 はじめに
 一人一人の児童・生徒が豊かな心を持ち,日々をその子らしく生活できるように教員が指導・援助することは,すべての保護者の願いである。そのためには児童・生徒が授業で得たことを,地域や家庭の中で生かすように指導内容や方法を改善・充実する視点が大切であると考える。とりわけ,地域における体験学習は児童・生徒が自ら調べ,地域の人と触れ合い。新たなことを発見する機会を与えるものと私は信じている。
 国際都市東京には,世界の様々な外国人が在住している。この利点を生かし,昨年,都立小石川高校において。オーラル・コミュニケーションBの授業の一環として,外国人とインタビューするよう指導・援助した。以下の実践報告が国際理解教育の一助になれば幸甚である。

2 外国人とのインタビューの事前指導の概要
(1)ねらい
@日本と外国の文化についての理解を深 める。
A積極的にコミュニケーションを図ろう とする態度を養う。

(2)内容と方法
@テーマ例 余暇の過ごし方について
Aテーマの内容をさらに深める質問を,5つほど生徒各自に考えさせる。
「余暇の過ごし方について」の質問例
・余暇をどのように過ごしていますか。・日曜日には教会に行きますか。
・日本人の余暇の過ごし方をどう思いま すか。
・各世代の余暇の過ごし方には,どのよ うな違いがありますか。
・お金に十分余裕があれば,余暇をどう 過ごしたいですか。
Bインタビューの場所(例)
・大使館(あらかじめ予約してから訪問 する)
・浅草や六本木など,外国人を比較的多 く見かけるところ
(職業,年齢,支持政党など,人権やプ ライバシーに関する質問は避ける)
(記録は,テープに録音するか,ノート にメモする)
(許可を得た上で,インタビューした人 と一緒に写真を撮る)
C報告書の作り方(原則として英語で書 くこと)
・テーマおよびテーマ設定の理由
・インタビューの場所,質問事項
・感想(外国人と一緒にとった写真を1 枚以上貼ること)
D10段階で評価し,2学期の評価に加える

3 生徒が外国人とのインタビューで学 んだこと
 生徒の報告書の中から数例とりあげ, 外国人にインタビューを通じて学んだ ことや気持ちの変容について述べたい。
(1)大半の生徒にとって外国人にインタビ ューしたのは,生まれて初めての経験 であった。
(2)生徒の中には日本の食生活について,ドイツ人,フランス人,カナダ人,ニュージーランド人などの多様な国籍の外国人に積極的にインタビューしたものもいた。

(3)街頭で会ったインドネシア人にインタビューした生徒は,インドネシアの人々が,日本人に対して良い印象だけではなく,反日感情も抱いていることを実感した。また,この生徒はインタビューを契機に,相手の人と文通をはじめた。

(4)オーストラリアの大学院生に,高校生活についてインタビューした生徒は,日本とオーストラリアの校則の違いに興味をもち,是非オーストラリアに行ってみようと思うようになった。

(5)病院の眼科に勤めている婦人にインタビューした生徒は,@アメリカ人の男性は職業より課程を大切に考えていること,A日本では,外国の場合に比べて,子供の教育は母親に任せる場合が多いことを学んだ。

(6)オーストラリア人に銃犯罪について話し合った生徒は,日本においても銃犯罪が続発していることを説明した。この生徒は同じテーマについて,次回はアメリカ人と話し合いたい気持ちになった。

4 外国人とのインタビューの評価
 文部省が1月24日に橋本首相に報告した「教育改革プログラム」によれば,2003年を目途に完全週5日制を目指すという。これからの社会に生きる児童・生徒は,地域や学校で過ごす時間が今まで以上に増える。しかるに,都市化,通塾,情報化などの影響で,地域や家庭の中での人間関係は,希薄化している風潮がある。このような社会の変化に対応する課題の一つは,地域や家庭の中でいかにして豊かな人間関係を育むか。問うことであると私は考える。外国人とのインタビューは,この課題解決に向け,次のような利点があり,これからの時代に即した国際教育の一つの方法であると思う。

(1)外国人と何とかコミュニケーションを図ることができた,という体験をすることにより,その後の英語学習への自信と意欲が生まれる。

(2)インタビューするテーマについて,事前に調べることにより,日本や外国の歴史や社会問題等の文化や伝統について,興味・関心が深まる。

(3)インタビューをした相手と文通を始めるなど,国境を越えて外国人と豊かな人間関係を作ることができる。

(4)外国旅行に行かなくても,地域の中で生きた英語に接することができる。

(5)自らテーマを設定し,テーマについて調べ,報告書をまとめるという厳しさがあるが,課題を達成した後には,学ぶ喜びと成就感を得ることができる。





駒場高校の国際理解講座
「聞いて見て食べる現代東洋事情」
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東京都立駒場高校 宮田 智子

はじめに
今年度(平成8年)、わたしは、都立駒場高校における国際理解に関する公開講座を担当した。東京都高等学校国際研究協議会の活動に参加することを通してこれまでに培ってきたノウハウと、また知り得た人々の協力によって一応の成果を上げる事ができたので、ここにその概要を報告したい。
公開講座は夏休みの冒頭の5日間で、「聞いて見て食べる現代東洋事情」と題して、台湾・タイ・マレーシア・ヴェトナムの4カ国の紹介とタイ料理教室を行った。参加者の評価は概ね好評であったが、それは現在私達の中に一部ではあるが、この日本の周辺を見なおし、新しいアジアの中でどのように生きてゆくかという関心が深くなりつつあることを示しているのではないか。
欧米先進国については、もとより書籍、雑誌等の情報も多く日本人の関心が高く、年々海外旅行で行く人も多い。これに引きかえ開発途上国に対する関心は、一部のリゾート地や観光名所、買い物に便利な大都市以外は訪れる人も少ない。しかしそれら開発途上国の中で、アジア諸国は、日本の近隣にあり日本にとって、これからは今まで以上に大きな係わりが予想される。それこそ21世紀はアジアの世紀とも言われるほどである。
そこでこの講座を、アジア諸国への理解を深める機会にできたらと、最新の東洋事情に詳しい深田裕介氏の著作を参考に今回の4カ国を抜き出してみたのである。 台湾はアジアの中にあって歴史的にも唯一日本に親近感を持っている国である。またタイとマレーシアは日本の多くの企業が進出しており特にマレーシアは、マハティール首相のルック・イースト政策により日本企業の誘致に大変熱心である。さらにヴェトナムは長年の戦争に疲弊しながらも近年はドイモイ(開放)政策導入により、その元気を回復しつつある。
講座はこれら各国毎に、その国のプロパガンダとならず客観的に紹介することを目的としたので、講師として必ずその国の出身者と、日本人でその国について研究や活動をなさっている方にお願いした。もっとも苦労したのは、こうした講師探しだったが、4月以降、ほぼ毎週の研修日に各国の大使館、観光庁巡りを行い6月には合計10名の方に講師をお願いすることができた。 7月中旬、それぞれの講師の方との打ち合わせが終了し、準備が整ったのである。 以下、公開講座の日程を追って、順に講師とその内容を紹介する。
7月22日 第1日ー 台湾 「その歴史と現代」
講義内容 :
1.講演 by 陳 燕南氏
2.ビデオ上映(「魅惑の台湾」 台湾観光協会貸出)
3.講演 by 浅野 豊美氏
講師紹介
陳 燕南氏:台北駐日経済文化代表処・文化組組長(大使館参事官に該当)
1937年に台湾台南県に生まれる。国立台湾海洋大学(水産生物化学専攻)を 卒業して後、兵役義務として空軍に1年間所属(少佐)。1969年より2年間東京大学大学院(水産生物化学研究室)に官費留学。日本の文部省にあたる教育部国際文教省に勤務のかたわら、母校の海洋大学で非常勤講師として教鞭をとる。1975年より、台北駐日経済文化代表処・文化組に勤務し、現在に至る。
浅野 豊美氏 : 東京大学大学院総合文化研究科国際関係論専攻 博士課程 研究テーマは、「第2次大戦と植民地問題 - 朝鮮と台湾の“戦後"をめぐって」 1964年生まれ。福島県出身。1988年東京大学教養学科国際関係論コース卒業。1991年4月より同大大学院総合文化研究科に籍をおき、1991年に修士課 程を修了し、現在は博士課程に在籍。この間、94年2月より翌95年2月まで、 米国ハーバード大学にライシャワーセンターフェローとして留学。また、95年7月より96年6月まで、(財)日本・台湾交流協会に勤務する。
陳さんは、台湾の人の日本に対する感情をまず紹介された。その内容は、台湾の人々は、日本の台湾植民地支配(1895年~1945年)によって、台湾のインフラストラクチャーの整備と、教育制度の確立が行われたことについては一様に感謝をしているが、しかし、その感情は世代や出身によって異なっていること、第2次大戦前に日本の教育を受けた65歳以上の人々は日本に対しあこがれに近い気持ちをもっているが、それに反して、戦後蒋介石と共に大陸から入ってきてその後1988年に李総統となるまで台湾の政財界を支配してきた外省人と呼ばれる人々の間には、根強い反日感情があること、また、若い人達は、歴史教育の中で学んだ植民地支配(主に大陸中国における)の思い出から、反感をもっているが、衛星放送などを通して、日本から入る情報に触れて、アニメーションやファション、音楽の分野で大きな影響を受けていることなどである。
その上で、台湾経済の現状について、コンピューター、半導体生産を中心にメディア産業に力を入れて大きく躍進する様子をご紹介くださった。また、尖閣列島はもちろん、実は沖縄も本来は台湾に属するものなのだという発言も中にさしはさまれて、受講者を驚かせた。
一方、浅野さんは、台湾の歴史の概要(主に日本との係わりにおいて)とご自分が台湾を旅行した折に受けた日本の30年前を彷彿とさせる台湾の街なみや美しい自然についての印象を述べるとともに、日本が若者を中心にどういう形で台湾に影響を与えているかを、さらには、台湾の将来を考えたときに、どういう形の選択枝があるか(大陸帰属か完全独立か)などについてお話しされた。

7月23日 第2日ータイ料理教室
講師紹介
Rachada Suchao(ラチャダ・ス-チャオ)氏
1972年12月8日生まれ。タイ南部トラン県出身。17才までバンコクで育つ。祖母がケーキ店を営んでいたので子供の頃から 料理作りに興味をもつ。1989年に来日し、日本語を勉強する。1991年駐日タイ王国大使館勤務、会計担当。タイ料理を作るようになった直接のきっかけは、「日本には、あまりタイ料理がない。値段が高い。」ということで、自分が食べたい一心で作り始める。大使館では、会計の仕事のほか、大使官邸のキッチンも手伝っているので、コックさんから仕事をしながら教えてもらう。大使館の仕事の傍ら、夜は日本の高校(都立第一商業)に通って勉強している。タイ語のほ か、日本語、英語を話す。趣味は読書。
Porntip Napawongdee(ポンティップ・ナパウォンティー)氏
1968年6月4日生まれ。タイ、バンコク出身。タマサート大学政治学部(国際関係論専攻)卒業。1991年に来日し、国際学友会(日本語学校)へ通う。1992年~1994年 慶応大学法学研究科に在籍し、政治学を専攻する。1994年~1995年 大和証券国際引き受け部に勤務。1995年より、タイ王国大使館にインフォメーション・アシスタントとして勤務し現在に至る。趣味は音楽鑑賞で、日本人に対しては、勤勉でキチンとしているという印象を持っている。
タイ料理レシピ
(当日は4品扱ったがその内2品のみ 紹介)
☆ゲーン・キョウワーン・ガイ(鶏肉となすのグリーンカレー)
(材料) 3人分
鶏肉 300g なす 2個 プチトマト 8個 ココナツミルク 400cc バジルの葉 適宜 コブミカンの葉(千切り)2枚 グリーンカレーペースト 大さじ2 ナムプラー 大さじ2 砂糖 大さじ1 サラダ油 大さじ2 水 200cc (作り方)
1) 鶏肉は一口大に切る。
2) なすは八つに切り、水にさらしておく。
3) フライパンにグリーンカレーペース トとココナツミルク1/2カップを入れ、 油が浮いてくるまで炒め、1)の鶏肉を加 える。
4) 別の鍋に残りのココナツミルクを煮 立て、3)の鶏肉、2)のなす、水、細く切っ たコブミカンの葉、バジルの葉を加えて 煮、ナムプラーと砂糖で調味する。
5) 器に盛ってバジルの葉、へたを取った プチトマトを飾る。
☆トム・チュード・ヴンセン(春雨スープ)
(材料) 2人分
春雨 25g 豚ひき肉 50g 干しえび 小さじ1 パクチーの根 1本 にんにく 1/2片 しめじ(またはふくろだけ) 50g 万能ねぎ 2本 パクチーの葉 適宜鶏ガラのスープ 500cc シーウイ・カーウ 小さじ1 シーズニングソース 小さじ1/2 塩 小さじ1/2 胡椒 少々 中華調味料 少々 塩・こしょう 各少々 片栗粉小さじ1/2 にんにく油 適宜
(作り方)
1) パクチーの根、にんにくはみじん 切 り、万能ねぎは2~3cmに切る。しめ じは 石づきを取り、適当に裂く。
2) 春雨は水でもどし、4cmくらいに 切 る。干しえびも水でもどし、から 炒り する。
3) ボールに豚ひき肉、1)のパクチー の 根、にんにく、片栗粉、塩、こしょ うを 入れてよく練り、団子状に丸め る。
4) 鍋に鶏ガラのスープを沸騰させ、 3)の団子を入れて火を通し、干しえ び、春雨、しめじ、万能ねぎを加える。 5) 4)にシーウイ・カーウ、シーズニ ングソース、中華調味料で味をつけ、 仕上げに塩、こしょうで味を調える。 器に注ぎ、パクチーの葉、にんにく 油を添える。
ラチャダさん、ポンティプさんが、手際よく教えてくださり、できあがった料理はどれもとてもおいしいもので、参加者みなが十分満足できた。(尚、普通の店では手に入らない食材はエスニック料理の食材店で仕入れた。)
7月24日 第3日− タイ 「その人と暮らしぶり」
講義内容 :
1.講演 by クリット・タンカナタラナ氏
2.ビデオ上映(「魅惑の国 タイ国」 タイ大 使館貸出)
3. 講演 by 中川るな氏
講師紹介
Krit Tankanaratana(クリット・タンカナラタナ)氏
1968年生まれ。タイ・バンコク出身。タマサート大学政治学部(国際関係論専攻)卒業。 1990年よりタイ外務省に勤務し現在に至る。1991年~1994年 上智大学比較文化学部(国際関係学専攻(大学院))に留学。 1994年に外務省に復帰し、1995年よりタイ王国駐日大使館勤務(3等書記官) となる。趣味は読書。子供のころより、家族旅行で日本を数回訪れており、初めての 外国も外国人も日本、日本人であった、そうしたことから日本には非常に親しみを感じている。
中川るな氏
1959年、東京生まれ。1981年に女子美術大学デザイン科(工芸専攻)を卒業。中学校の美術教師としての勤務を経て、
1986年~1989年 国際協力事業団より、青年海外協力隊員としてタイに派遣。 モンクット大学でテキスタイル・デザインの講師として教鞭をとるかたわら、染色関係のコースを開設するために尽力した。1989年に帰国後、1990年〜1993年 多摩美術大学大学院(美術研究科)で染め織りの研究にあ たる。(修士課程修了)1994年に出版社メコンよりタイ滞在中の生活の様子を綴った「バンコクのカボチャ」を出版する。現在は創作活動に専念しながら、美術講師として学校でも教えている。
クリットさんは、タイの概要(気候・民族・宗教・歴史)を紹介し、歴史上のタイと日本の接点について、600年前は沖縄の人々と交易があったことや、アユタヤ朝の時代には日本でもよく知られている山田長政らが活躍したこと、第2次大戦中には、タイは日本と敵対関係にはなかったこと、また、タイ人と日本人の共通点と相違点として、共にていねいであるものの、タイは女性中心社会で、日本は男性中心であること、また、タイ人は楽観的でマイペンライ(「どうにかなるさ」 やや無責任体質)、日本人は勤勉であることなど述べられた。
また、中川さんは王族の人々国民から大変好感をもって受け入れられていることや、タイの女性が強くしっかりしていること、その反面、男性が多少いいかげんで浮気心が多い??ことなどを、ご自分の協力隊員としての活動報告とともに語られた。
7月25日 第4日−ヴェトナム 「ドイモイの現在」
講義内容 :
1.講演 by グエン・フォン・ラン氏
2.ビデオ上映
3.講演 by 佐々木 隆宏氏
講師紹介 Nguen Phuong Lan
(グエン・フォン.ラン)氏
1959年、ヴェトナム・ハノイ市生まれ。1964年より、家族と離れて疎開し、ハノイ近郊の農村で暮らす。1974年に、高校を卒業後、政府奨学金でロシアへ留学。1977年から、中央アジア、ウズベキスタン共和国タシケントのロシア語学校で、1年間語学の習得に励む。 その後、モスクワの外語学校に5年間在籍し、ロシア語と英語を学ぶ。1983年にヴェトナム・ハノイへ帰国。ロシア語通訳として共産党・国際局に籍をおく。この間、平和委員会書記としても活動。この活動を通じて日本の広島関係者とも交流することとなり、それがきっかけとなって、日本の文部省の留学生となる。1991年に来日し、日本語学校で学んで後、1993年〜1995年横浜国立大学経済学研究科修士課程(修了)、 1995年より、同博士課程に在籍し現在に至る。研究テーマは「日本における中小企業金融政策」。家族はご主人と2人のお子さん。現在はそろって日本に暮らす。
佐々木 隆宏氏
1959年生まれ。1984年東京農工大学農学部卒業。1984年国際協力事業団入団。農業開発の計画作りに従事。パキスタン、ケニア、スリランカ、マリ等の農業開発計画をてがける。1987年事業団よりフィリピン国畑地潅漑技術開発計画プロジェクトコーディネーターとして、フィリピン国家潅漑庁に派遣。1990年よりJICA本部無償資金協力事業部に配属、インドネシア、モンゴル、インドシナ3国の事業に従事。最近は、教育、交通運輸通信、水産セクター等の無償資金協力の調査を担当。この間、1993年~1995年まで、ヴェトナム日本大使館に出向。経済協力の開始に伴い、日本のシステムに不慣れなヴェトナム政府関係者とともに、協力プロジェクトを推進。
グエンさんが片言の日本語でヴェトナム戦争から中越戦争、カンボジアへの介入までの戦時下にあって、つらく苦しかった母国の様子とご自分のことを語り始めると会場がシーンとなった。ヴェトナム戦争時代は物資がなにもなくて、北ヴェトナムの子供達は幼いころから親元を離れて疎開先で暮らさなければならなかったこと、中越戦争前には飢饉もあって、親達が捨て子をしなければならない状況もあったことなどを、不自由な日本語ながら、言葉というよりはむしろ感情に訴えるといった話ぶりで語ってくれた。それは、ヴェトナムの女性は気丈夫だという印象を与えるとともに、ヴェトナムの人々が大変な思いで長い戦争を乗り越えて来たのだということがしみじみと伝わってくるものだった。
一方近年、経済的にはドイモイ政策導入を境に、巷に高くはあっても品物がでまわるようになり、それを皆が歓迎していることを話してくれた。(ドイモイ以前は、鎖国状態にあって物がなかったという。)ヴェトナム情報については、大使館からの協力が一切得られず(まだ体勢が整っていない模様)、グエンさんのハノイの家族団らんを撮影したビデオやヴェトナムを代表する作曲家による歌の収録された歌謡ビデオを貸していただけ大変助かった。
また、佐々木さんはホーチミンの独立戦争以降現代に至るまでのヴェトナム近代史の概要を紹介してくださり、87年に導入されたドイモイ政策が89年には本格的なものとなり、94年頃からその具体的な成果が目に映るようになったことなど話してくださった。
なお、大使館に出向中あてがわれた宿舎は、水道栓をひねるとボウフラが出てくるなど、上下水道を始め、インフラストラクチャーの整備がまだまだであることなど印象深い話もされた。

7月26日 第5日−マレーシア 「アセアンの優等生」
講義内容 :
1.講演 by 黄 鎮成氏
2.ビデオ上映(「マレーシアの魅力 - 世界に飛躍するワコー電器」 日本マレーシア協会貸出)
3.講演 by 宮澤 栄氏
講師紹介
Kenny Ng ThengSeng(黄 鎮成)氏
1960年、マレーシア・ペナン州生まれ。1979年 マレーシア・ぺナン州 日新ハイスクール卒業。1988年に来日し、東京東進日本語学校で日本語を習得。1990年~1994年 亜細亜大学法学部法律学科(卒業)。1994年~1996年 横浜国立大学国際経済法学研究科修士課程(修了)。1996年より、法政大学大学院社会科学研究科政治学博士課程に在籍。上記の間、1981年~1985年 金田建設会社(積算・購買課)勤務。1985年~1988年 光栄家電販売会社勤務。将来については政治家志望。
宮澤 栄氏
1957年岩手県生まれ。高校を卒業して後、保育園に保母として12年間勤務。1992年~1995年、47倍の難関をくぐり抜け、国際協力事業団より、青年海外協力隊の一員としてマレーシアに派遣。保育の専門家として、現地の保母の指導に当たるとともに、政府関係者に保育行政についての助言も与える。また、日本の自治体からの支援による入植地への図書館寄贈にも係わり、現地でその開設に携わった。また、こうした現地での活躍が評価され任期が1年延長されて3年のマレーシア滞在となった(通常2年)。優れた順応性と、何事もないがしろにしない性格で土地の人々にいちはやく溶け込んだことが協力隊員としての成功につながったようだ。現在、東京家政大学家政学部に在籍し、児童学を専攻。将来は、日本とマレーシアの架け橋となるような仕事に就きたいとのこと。
黄さんは、マレーシアが2020年までに先進国の仲間入りを果たすことを旗印に、毎年目覚ましい経済発展を遂げつつある様子を誇らしげに語ってくれた。ただ、マハティール首相が推進しているブミプトラ政策(マレー人優先政策)は、これまで経済界に影響力の強かった中国系、インド系の人々にとっては不利な状況を産みだすものであり、中国系である黄さんは歓迎していないこと、また、そうした政策からもおしはかれるように、人種間の協調関係の不在が問題点としてあることなどを述べた。
協力隊OGの宮澤さんは、ご自分の隊員としての仕事を紹介し、その中で、ある町の図書館建設のプロジェクトに参加した折り、イスラム教の強い地域にあって、児童室も含めて男女別の閲覧室を設けなければならなかったこと、つまり、国によって同じことも着眼点を変えて対応していかなければならないことを実感したとお話しされた。
また、マレーシアの民族衣装や遊具もお持ちいただき、参加者は、試着や実際に手で触れての異文化理解をすることができた。
おわりに
公開講座を終えて、改めて今(1月現在)振り返ってみるに、準備期間から講座期間を通して、アジア理解について、大変密度の高い時間を過ごしたように思う。大いに消耗した5日間ではあったが、得たものはそれをはるかに越えて大きかった。講座終了後の修了パーティーにおいて聞いた受講者の反響も講座のシリーズ化を望むものや、他に取り上げてほしい国の要望など、おおむね積極的なものであった。主催者としても、是非、今後も何らかの形でこの講座を継続して行きたいと思っている。最後に参加者の声を2・3あげて報告のしめくくりとしたい。
◇知らない自分を確認
この講座を受けて、近くの東洋に就いて、知らないことばかりの自分を確認したと思います。
台湾、タイ、ヴェトナム、マレーシアそれぞれ長い歴史をもち、伝統・宗教・言語は複雑を極めているようです。日本やヨーロッパ各国の植民地となり抑圧と搾取を受け、今は独立を果たされました。近代化に成功されたお国もあり模索中の国もあるようです。アジアはひとつではなく、それぞれの魅力が人を引きつけ、問題もそれぞれ抱えていますが、これは日本も同じではないでしょうか。それぞれのお国の講師から直接お話しを伺えて幸せでした。先生方のお話しにも胸を打たれましたし、タイ料理も楽しい一時でした。   (佐久間涼子)
◇アジアへの興味
過日タイに旅行して、その人柄の良さと暖かさに触れ、アジアに興味を持ったので、講座に参加させていただきました。そのため特にタイにつきましては、生活様式が良くわかり身近に感じました。それぞれの国の講師をお呼びしてお話しをいただいたことは、講師の方を選ばれるのに苦労されたことと思いますが、大変良い企画で、内容が良くわかり実感も持てて、とても良かったと思いました。そしてその国で生活されたことのある日本の講師の方の日本人サイドから感じたお話しをお聞きする方法も、更に内容を深めることができて良かったと思います。  (坂井光子)
◇それでは日本はどうなの?
性格の違いはあるものの自分の生まれた国、育った国を思いアピールする姿は想像以上のものがあった。確かに、職業上、立場上の制限がある中での考えではあろうが、その中に時々見え隠れする国民性は、どの講師にも強く見られた。 日本人が自国を理解してもらおうと行う講演はどのようになるのか興味がある。また、その日その日の講演をその国の人が聞いたらどのような感想を持つのだろうか知りたいところである。一日の講演会を企画するにも大きなエネルギーを必要とするのに、5日間という長きにわたる講座を企画するのはさぞ大変であったろうと思うにつけ、感謝します。 (小野寿美江・駒場PTAより参加)






CCC、ここにあり―異文化体験の楽しみ
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                東京都立府中西高等学校 小島義晴

1その誕生
 きっかけは、私が平成7年度文部省海外派遣団の一員に選ばれたことに始まる。16日間の間、アメリカ中を走り回った。途中、ワシントンでは100万人マーチという黒人男性だけの集会にもでっくわした。地下鉄中が本当に真っ黒だった。ニューヨークやロサンゼルスでは路上生活者をたくさん見た。華やかなミュージカルや大きなリムジンも見た。
 とにかく毎日、忙しくてくたびれた。だが本当に楽しかった。驚くことの喜びを知った。見ると聞くとでは大違いである。日本に戻ってから、他の国のことをもっともっと知りたくなった。それもただ旅行をするだけでは味わえない、彼らの懐に飛び込むような体験がしたい。かつて訪ねた幾つかの国のことを思い出したりもした。市の主催する文化理解講座にも参加した。そのうち、一人でやるより、生徒とワイワイやったらさぞかし楽しいだろうと思い始めた。
 ちょうど必修クラブの締め切りがせまっている頃だった。えい、面倒だ。なんか、そんなふうなのを作っちゃえ。メンバーは一人でも二人でもいい。そう腹を決めた。

2命名

 まずネーミングにこった。難しい名前じゃ生徒もわからない。そこで、クロス・カルチャー・クラブと命名した。略してCCC。ちょっとアヤシゲなところが気に入った。国際交流クラブでは荷が重すぎる。もっと軽いノリでやりたい。面白いことがあれば、すぐに飛んでいくという感覚を大事にしたかった。
 2年生を中心に5、6名がすぐに集まった。なんでこういうクラブがもっと前からなかったのかと生徒に怒られた。3年も元気なのが集まった。だいたい国際関係の学科に進みたいという連中ばかりだった。だが具体的に何をやるかということになると、生徒はそれほど真剣に考えてはくれない。仕方がないから、あちこちに出かけた。府中市の担当者に会った。近くにある東京外語大日本語学校の先生にもあった。ここは超優秀な国費留学生がいるので有名なところである。真正面からでは、どうも相手になってもらえそうもなかった。バスケットボールの試合か、夏に多摩川でバーベキューでもやりましょうか、という話ぐらいが収穫だったろうか。

3スピーチ・コンテスト

 クラブをはじめて一、二カ月がなんとなく過ぎた。そんな時、たまたまK社が主催するグローバル・エデュケーション・フォーラムというのに参加する機会を得た。カナダの高校の先生の話を2日間、横浜までいって聞いた。その際、主催者であるK社が夏に異文化交流プログラムを実施するという話を耳にした。直感的にこれだと思った。7月19日からほぼ2週間、世界の各地からくる高校生と一緒に寝泊まりしながら、様々なプログラムに参加するという。ホームステイあり、浅草見学あり、高尾山へのハイキングあり。とっても楽しそうだ。
 生徒もすぐに行きたいと言った。自宅から通ってもいいし、世田谷ヒルズという宿泊所に泊まってもいい。期間中、オーストラリア大使館で英語スピーチコンテストと国際交流基金国際会議場で日本語スピーチコンテストを実施するらしい。これに行かない手はない。すぐにパンフレットをたくさん送ってもらった。生徒達はそれぞれのスケジュールで勝手に参加した。3年の女子などは同じ部屋に泊まったオーストラリアの子のスピーチの手伝いをし、原稿の添削まで引き受けた。最後は成田まで見送って泣いたとか。これはCCCにとっての大イベントだった。
 赤坂になんてふだん行ったことのない面々が、インテリジェントビルに出没するという図はなかなかのものだった。ところがそこでまたちょっとした人に出会った。以前同じ勤め先でその後校長になられたS先生が、中国青少年との交流を図る事業を始めたとのこと。これが後に長春外国語学校の生徒たちとの文通にまで発展するとは、その時にはまだ知る由もなかった。これは現在も続いており、小学校4年の時、中国からやってきた3年生のS君などは喜んで、中国語と日本語で手紙を書いている。

4国際研との出会い

 その後はなんといっても国際研との出会いである。これは大きかった。職員室にはってあったチラシを何気なく見て、またしてもこれだと思った。2年が修学旅行中で全員出られないのが残念だったが、とにかく楽しかった。1年生はこの後、すぐに口コミで何人か増えた。歌って踊って国際交流なんて、すっごくしゃれてる。こういう企画は大好きだ。生徒ものりにのった。ちょっとやりすぎかなと思ったが、なるようになれ、と放っておいた。
 食事もおいしかった。休憩時間に話したインドネシアの技師の人もすごく優しかった。生徒は気後れしてほとんど話せなかったようだが、それはそれでいい。そこから全てが始まる。まずびっくりすることだ。違うことは楽しい。帰りに代々木上原の高級住宅街を歩きながら、こういうプログラムに参加するのってちょっとすごいよね、と生徒は口々に呟いた。
5まず驚き、それから考える
 今度は横田や厚木基地のオープンデーにも行ってみたいなと話していたら、メンバーの一人が基地にいる知り合いのツテで既に一日泊まってきたとのこと。けっこうやるもんだ。こういうパワーが、府中西CCCの原動力である。何か面白そうなことがあったら、すぐに知らせろと生徒には言ってある。自分の目で見なくちゃ、ほんとのことはわからない。まず見る。驚く。そして考える。この繰り返しが大切だ。
 基本は自分が一番楽しいということ。国際交流という名前に縛られてしまうと何もできなくなってしまう。自分がまず最初に楽しむ。それが人と人との交流の原点なのだ。みんなで元気に明るく楽しくやろう! 生徒にはいつもそう繰り返し話している。








‘96開発教育を考える集いin TOKYO参加報告
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               東京都高等学校国際教育研究協議会事務局長
         都立八潮高校定時制教諭 協力隊OB会会員  斉藤宏
                        
 1996年12月7日から8日まで国立オリンピクック記念青少年総合センターにおいて協力隊を育てる会主催で、私達東京OB会を含めたくさんの後援、協力をうけ、‘96開発教育を考える集い〜地球市民の輪を広げよう〜が開かれた、テーマは「つなげよう私達の暮らしと国際協力」をあげ
@内なる国際化と教育―学校に外国の子 供がきたー
A教科書の中の「国際協力」から実践へ
B女と男の開発教育―ジェンダーってな あに?―
Cお買い物を通してできる国際協力―草 の根貿易の現場からー
D私たちが創る国際協力―NGOをはじ めるー
E企業の社会貢献と国際協力
の六つの分科会に別れて実践例の発表と討論が行われた。
記念講演にはフリージャーナリストでアジア女性資料センター代表の松井やよりさんに「グロバリゼーションと日本」というテーマで開発教育のなかで環境と人権にいつも重大な関心をおかなければならないと同時に自分の中でジェンダー(社会的役割)をいつも点検していくことが重要であるとの主旨をジャーナリストとして集めた世界各地のホットな情報を基に力強く話された。今回の分科会の中で注目される一つはE企業の社会貢献と国際協力の分科会が新設された事だろう。企業が自己の利益だけでなく世界の利益のために動き始めた事は注目されるだろう、NGO支援の力強い財政基盤だけでなく、ボランティアに対する労働者の考え方を根底から変えていく動きとなっていくだろう。
筆者は、A教科書の中の「国際協力」から実践への分科会のコーディネーターとして参加したが、この分科会は学校でいかに開発教育を教えて行くかという、未来の地球市民を育てる場所として極めて重要な分科会であったと理解している。ここで活発に話あわれた内容は、まず基本的な問題として、学校教育における開発教育の地位の向上を仲間を広げる事で行っていく必要があること。
また、教科書記述が増えた現状でも教える側のボランティア体験などの欠如から知識的な注入に終わらないよう、教員の体験支援の制度の充実が望まれること。
そして、開発教育を実践する段階で何を目的とするか、何を教えるかという問題の中で、人権、平等、環境を基盤に置きつつ地球市民として共生出来る社会をめざしての、人間理解を目的としていけば、何で教えるかという内容はそれほど問われない、たとえODAに賛成、あるいは反対の教材であっても目的を押さえれば考えさせる効果があるといえるだろう。要は教科書を教えるのではなく、教科書で教えるのだということを認識し各地で頑張って行こうと言うことであった。
具体的に、たくさんの参加者(教師、政府系組織、NGO、学生、団体職員など)が発言したが、そのなかから提出された問題を列挙してみよう。

● マスコミ報道などでは、ODAの円借款の内容が理解されていない、短絡的に批判される。その論調が教科書にも載っている。(政府機関)
● 教科書の開発教育に関連する記述は多くなったが、どのようにアプローチしていくか判らない。
● インターネットを通じて国際協力の関連情報をCD-ROMにまとめている。国民全体に向けた国際協力の広報を行っている。その中で、教師の持つ「国際協力」のイメージや接し方を知りたい。(NGO)
● 教科書の記述に対して知識のみを与える事だと勘違いしているのではないか。 (教師)
● 香川県等、地方ではなかなかこういう集まりがないので、赤十字クラブを作って、クラブ活動のなかで、インドのスラムの中に学生をつれていったり、実体験させている。また、東南アジアからの留学生が多くその人達との交流もおこ なっている。(教師)
● 地理の教育実習で「人種のサラダボール」を教えた、その時の生徒の好奇心の強さに驚いた。(学生)
● 自分の海外体験だけを話すのではものたりない。例えば従軍慰安婦問題など、さらに勉強しなくては授業はできない。人々の日常をどのように伝えたら良い のか、旅行者的体験では難しい。(教師)
● 世界の生活文化の情報を教えるのが開発教育ではないか。(教師)
● 開発教育の定義がはっきりしていないし、学校の閉鎖性のため他の教科の事がわからない、教科を横断する内容なのに、協力体制は出来ていない。(教師)
● 貿易ゲームを体験して南北問題を考えた、これはよかった。(学生)
● 教師の悪いくせで自分一人で背負い込もうとする。もっとオープンにやるべき。現在カンボジアのスクールマネージメントを支援している。(団体職員・教師)
● 国際協力の基本は@人道的配慮A相互依存関係の認識B環境の保全C自助努力の支援で行われているが、プラスの評価は少ない。例えば@環境破壊につなが るA途上国の為になっていないB日本の企業の為の援助だ等である。これも失 敗の公表がない等、オープンになっていない点が批判にさらされている。しか し、批判は必要で、それがプラス志向ならば、その中から本当の国際協力の道が見えてくる。(政府機関)
● せっかく派遣された教師の協力隊経験を自治体側に積極的に活用するシステムがない。(教師)
このように、国際理解、国際人としての育成などが文部省で声高に唱えられている割には、まだまだ学校現場に浸透していない現状が浮かび上がる。それは、一つには、学校組織は昔から教科で縦割りされた場所であり、開発教育のように教科を横断する内容を教えていくにはまだまだ対応できないのである。しかし、今回の会のように関心を持った教師が草の根的に広がってきているのは大きな力である。今後も、この会に参加した人達がその輪を広げていく必要があるだろう。
同時に開発教育がいかに生徒達の地球市民としての人間形成に役立つか、生徒の心に訴える授業実践を数多く積み上げ、その地位を築いていかなければならないだろう。これには、私達の行っている活動。各都道府県の国際教育研究協議会の地道な研究活動も力になっていくであろう事を最後に申し添えておこう。
全体を通して会の運営には若いボランティアが積極的に参加し、懇親会の後も夜遅くまで熱っぽい討論が続き、開発教育を考える集いは開発教育のエネルギーをより大きなものに発展させたといえるだろう。
豊かな自然とGNP100ドルの生活とのアンバランス
〜キリマンジェロのそびえる国タンザ ニア〜
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都高国際研事務局長
都立八潮高校定時制 斉藤 宏
               
1 はじめに
 タンザニアというと、なにを想像するであろうか、マラソンのイカンガ選手とかアフリカ一高いキリマンジャロのそびえる国とか、野生動物の天国、セレンゲッテイ国立公園とかのイメージがでてくるのではないだろうか、いずれにしても、日本からは遠いアフリカの国として、なじみの薄い国であることは間違いないだろう。南半球といっても南緯0から10度の中に入るので、ほとんど赤道直下といってもよい位置だが、国土の大部分は高度1000メートルから1500メートルの高原地帯であるため意外とすごしやすいのである。人口は2800万人にたいして国土は日本の2・5倍という広さで、都市部をのぞいてはほとんどまばらにしか人は住んでいない。
しかし、驚くことに、この国の一人当たりGNPは約100ドル前後で、世界のなかでも、低所得開発国いわゆる最貧国にはいる国なのである。
今回の滞在は飛行機での移動を除き実質8日間で、私たちが訪れることができたのは、広いタンザニア国土のなかの北東部から首都ダルエスサーラムまでのほんの一部であるが、それでもその移動距離は1000キロをゆうに越えるのである。

2 すばらしい国立公園を裏で支える地道な援助
今回のルートは、お隣のケニア、ナイロビ空港が出発点でそこから、陸路国境を越え南下して、首都ダルエスサラームをめざすのである。最初の訪問地がンゴロンゴロコンサルベーションエリアで、機械整備の技術指導をしている、稲見専門家を訪ねた。彼は、観光・天然資源・環境省 野生生物局に属している。国土の20パーセント近くが野生動物保護区域に指定されており、その広大な地域を維持していくため多くの車両、重機械が使用されており、これらの維持管理のメンテナンス技術は欠かせない。そのための技術指導といった重要な任務を持っている。稲見さんは専門家といってもマラウイを含め、アフリカに20年という、ベテランで、現地語のスワヒリ語を自在に使いこなす姿は草の根の協力隊員といったイメージで、肩ひじ張った指導と言うよりも、現地にとけ込んだ活動で、共感を覚えた。
 彼の、仕事場は、全てのナショナルパークの機械整備であるが、ここ、ンゴロンゴロでは、仕事場といっても、がらんとした整備場には工具と溶接機以外ほとんどめぼしいものはなく、稲見さんの指導で、溶接機で作ったばかりのエル型部材で組み立てた鉄製の部品棚も、棚板になる板がまだ予算が通らないため骨組みだけで、あの部品棚に部品が置かれる用になるのは何年後か、というよりも置かれる日がくるのか考えさせられたのである。棚板ぐらいと日本人なら考えるだろうが、これを、日本の援助で買っていれることは簡単だが、それでは自助努力を引き出すことにはならないのである。稲見さんは、現地の予算でそれが買われるようになるまで何年でも待つつもりだと言っていたのが印象的であった。1年、2年と期限が決まっている専門家は、自分の事を考えればその間に成果をあげなければならないと考え、おそらくその程度のものは待つよりも買ってしまった方が早いと考えるのがふつうではないだろうか。
 稲見さんの職場のトップである、環境省の長官のチャウシさんに稲見さんの評を言わせると、今までの英国流のトップダウン方式のシステムは住民との交流の面でかけるが、上と下とのコミュニケーションがある日本流のやり方には感心しているということであった。稲見さんは、ここには資材はなにも送っていないが、長官をはじめとして、カウンターパートにも評価されているということは、まさに技術援助が文字通り行われ、いつかは壊れてなくなってしまう物ではなく、永久に残る技術が本当に移転されていると考えて良いのではないだろうか。



3 学校を取り巻く現状
今回訪問した学校は、モシのテクニカルスクールとタンガ゛のガラノスセカンダリースクールの2校である。
学校教育制度は、
(1)保育園・幼稚園
(2)初等教育   小学校 
 (義務教育)5〜8歳で入学(7学年)
(3)前期中等教育 中等学校O
 (オーディナリーレベル) (4年)
  ナショナルイクザミネーション(合格者が進 級できる)
(4)後期中等教育 中等学校A
 (アドバンスドレベル)   (2年)
  兵役(0・5年)
  ナショナルイクザミネーション(合格者が進 級できる)
(5)大学(3年)大学はダルエスサラーム大学  一校だけしかない。
教員養成については、初等教育修了者は4年、Oレベル修了者は2年間、ティチャーズ・トレーニング・カレッジにて訓練を受けるとそれぞれグレードB、グレードAの教員資格を得るという制度になっている。(1992年の教員数は101306人)

前期中等教育(日本の中学)と後期中等教育(日本の高校)は日本流で言えば中高一貫教育のように一つの学校のなかにあるのだが、その就学率は極めて低いのである。(1992年資料による668868人)標準就学年齢人口に対する就学者の比率は、義務教育の小学校でさえ68パーセントOレベルに入学するのは約5パーセントというのだから驚くほどである。さらにAレベルに進学するものは1パーセント、大学に入るものは1988年で1162人と数えるほどで統計では表せないほど圧倒的少数である。
なぜこのような現状なのかその原因は国民の貧困と教育の予算不足が大きな原因であるようだ。前述のテクニカルスクールで教えている青年協力隊の小宮路さんによると、ここは寄宿舎制であるが、学費は年15000シルでその他設備費等で20000シル計35000シル(日本円で約7000円)かかり、そのお金を持ってきたものを校門で教師がチェックし受け取ったものに宿舎のマットレスを渡すという徹底ぶりで、その理由はお金が集まらなければ学校運営が続けられない現状だからなのである。それは、校舎の中を案内してもらってわかったのだが、教室の天井は落ちて穴だらけ、机、椅子は板がとれて骨組みだけ、生徒は、授業が始まる前にどこかから板を見つけてきて、その骨組みの上にのせてノートをとると言うことで、黒板もコンクリートに黒いペンキを塗ったもので、小宮路さんの教室などは、角で光が入らないのだが、電気もつかないままで、暗がりのなかで製図を教えているというから驚きである。学費を払うと給食が食べられるのだが、朝はウジといってトウモロコシを湯でといたスープだけで、昼もウガリという豆を煮ただけのものが毎日でるだけである。これで育ち盛りの子供達が生活していけるのかと考えてしまった。
訪問したときは、すでに新学期が始まっているのだが、生徒たちがお金を用意できないようで、まだ集まりが悪く授業はまだまだ始まらないようで、すでにきている少数の生徒たちは、自習をしている状態であった。物理であったが教科書は背表紙も外れかけ、紙は黄色く変色していて相当使い込んだ様子だが、ノートは読みやすい英語でしっかりと記入してあり、よく勉強している事がわかった。テクニカルスクールと言っても、実験器具や実習機材などほとんどと言ってよいほどなにもなく、結局、教科書とノートだけで知識を詰め込む現状なのだろう。
これに対して、田代隊員が勤めるガラノスセコンダリースクールの方は校舎や教室はしっかりしていた。これには理由があるのである。一つは、寄宿舎制をやめて通学制に移行中であることで寮費節減になっていることと、こちらは農業系の学校で、学校の敷地が驚くほど広いのである、そして校舎の回りには農園や牛舎、豚舎、鶏舎、羊舎とあり、沢山の家畜が飼われているのである。ここでは、給食用のトウモロコシを自給しているし、刈り取りも生徒にやらせるので費用はかからない、その倉庫に一教室使っているほどである。また学校をはじめ先生方は、自分の畑や家畜で収益をあげている。これは、馬鹿にできない額で、教員の給与が月に30000シルとすると、その3〜4倍位の収益をアルバイトであげているようである。これには、それなりの論理があるようで、政府の予算不足のため、職員の給与未払いも多く生活ができなくてはよい教育などはできないのだから、アルバイトをするのは当然と言う考えのようである。
ここで、授業参観の後教職員との懇談会がもてた。その中で、日本人で知っている人は誰ですかとのこちらからの問いに、しばらく考えた後に、UNHCRの緒方定子さんという答えだった、これは、意外だったと同時に、国際機関への日本の影響力が重要なことを考えさせられた。また、日本の情報不足の原因として、なぜ、日本の教科書等の英訳はないのか向こうから質問を受けた。これは、言われてみると、見たことがないし、そうした方がいいという考えも思いつかなかった。例えば、英語の教科書でも、その話は欧米の生活が中心で、日本の生活を書いてある部分は少ない。これを海外の子どもたちに見せても日本理解にはならない、日本の理解を促進するためにも英語の各教科の教科書というのは必要なのではないだろうか。
生活指導の問題については、イギリス流の体罰が許された国らしく厳格である、例えば、いじめが発覚した場合は退学、また女性徒が妊娠した場合法律で決まっているので退学、当然妊娠させた相手が生徒だった場合退学である。授業の態度を見ていても、私たちが見ていると言うこともあるが、真剣そのもので、ノートも実にしっかり書いているのである。いつもこうなのかとの問いに、説明を聞く時間と自由に話す時間があると言うことだったが、久しぶりにいい授業を見たと言う感想である。
 しかし、田代隊員によると、この国も学歴偏重の社会で、ナショナルイクザミネーションに受からないと進級できないことから、日常的なカンニングが存在すると言うことである。




4日本の稲作技術で村の生活が向上した
 工業関係のプロジェクトがほとんど効果をあげていないなか、キリマンジャロ州モシでの稲作プロジェクトは住民の生活が着実に向上する、目に見える成果をあげている。キリマンジャロ農業技術者訓練センター、略称KATCを訪れた。
 この訓練センターのプロジェクトは、1970年代からのキリマンジャロ州に対する、開発調査、技術協力の中で、1986年〜1993年に有償資金協力によるローアモシ潅漑計画(水田1100ha、畑地1200ha:1987年竣工)の成果によって、タンザニア側から要請されたプロジェクトである。
もともと、この地域はキリマンジャロからの地下水が、泉となって湧いている場所がいくつもあり、潅漑設備さえつくれば稲作に向いている場所であった。潅漑施設の他、トラクター、計304台の供与、無償資金協力による籾収穫後処理施設建設という、集中的な資金、機材の投入により成功したのである。そして、この気候に最もあった品種がIR54ということをつきとめ、この品種による、日本式稲作技術を指導したのである。2000件の農家にたんぼ一枚3000シルで貸したところ、その年にhaあたり8トンから9トンの収量があり、これは、今までの方式に対して平均で三倍の収量で、一回めの収益で家が建ったそうである。今年までに4回程の収穫をしているが、大きな病気も起こらず収量は落ちていないのである。しかも、もともとトウモロコシとバナナがが主食の国民であるが、米の人気は高まる一方で、需要が増えるため値段も下がらない、さらにこの地区はケニアに隣接し、ケニアでの米の値段がタンザニアの倍ということも手伝って、米を作る農家が増える一方だということだ。
 しかし、新たな問題も起ってきている、それは、プロジェクト地域の上流で、米作りが儲かると解ると、見よう見まねでたんぼを作り、水を勝手に盗水して米を作り始める農家が回りにどんどん増えて、評価されている事は良いのだが、下流に来る水が減りはじめ、肝心のプロジェクト地域で休耕のたんぼを順番でつくらざるを得なくなってしまったのである。この問題は、一方で稲作技術の技術移転としては願ってもない効果だが、無秩序な拡がりは水の欠如と共に住民の争いに発展する可能性もあり危険性もはらんでいるのである。
とは言ってもこの大きな成果をもとに、稲作をタンザニア全土に普及するため、農業技術者を訓練するためのプロジェクト方式の技術協力を始めたのである。
これは、各地の農業指導の教官を一回20名ずつのコースで、5年で1000名に、タンザニアで確率した稲作技術を指導するのである。
この方向は、イニシャルコストはかかっても、ランニングコストはかけないことを基本に、有機無農薬栽培を教えて行くそうである。もともと肥沃な土地で、気温が高く最低でも22〜3度あるため堆肥の分解も早く、有機農法に適しているので、高い化学肥料を使わなくても良いようにすることが、タンザニアの現状に根ずく方法であろう。例えば、アゾラという浮き草を使い、窒素の固定を促進させたり、アヒルを泳がせ、雑草をたべさせて除草させたり、今後は水牛を飼って機械力ではない方法で耕したりと、現地にあった援助をめざしているのである。
 このプロジェクトの専門家達はリーダーの鯉淵さんをはじめ年輩の方が多く、経験が豊富で、皆さんが自信に満ちていた、鯉淵さんの文章の中に、「お金や施設や組織がなくなったとしても残るものを生み出して行くことがわれわれの責務だと」書かれているが、まさにこれこそが、自助努力を引き出す援助の方向性だと思うのである。

5 失敗を認め方向転換したサメ村落林業プロジェクト           
ダルエスサラームから北に430キロ離れたキリマンジャロ州サメ郡で展開している林業プロジェクトは、過度な薪炭材採取及び過放牧により森林が急速に減少している現状に対して、薪炭林造成、アグロフォレストリーシステムの育成、飼料木材造成などを目的に半乾燥地における森林造成を目的として、1991年の準備フェーズから始まった。
ところが、プロジェクトサイトの基本的な選定に問題があった。それはベースになるサメの雨量が500ミリ/年で何とか林業として成り立つ条件なのだが、そこからわずか10キロしか離れていない500haの広大なMKONGA(ムコンガ)プロジェクトサイトはそれよりも半分以下の200ミリ/年の雨量しかなかったのである、更にそれ以上の問題として、東側(インド洋側)に1500メートル以上の山岳地帯が連なりその地形からフェーンにも似た乾燥した強い風が吹くという悪条件で、育とうとする苗が強風のため気孔を閉じてしまうのか成長が遅くここでの林業はもともと困難なのである。
なぜこの場所を選んだのかは疑問に残るが、今、根本からこのプロジェクトの見直しと方向転換を進めている。それは、トップダウンの画一的な指導ではなく、 住民が何のために木を植えるかという原点に立った視点にもどりやり直す事である。その為にこちらが村を巡回し、信頼関係を作りながらその村のニーズをつかみ、その村にあったメニューを作り継続的にサポートする方法に切り替えたのである。
 その転換した新しい方法で林業プロジェクトが指導をしているマサイ族の伝統的な村を訪問した、サバンナの中の道なき道を、まるでパリダカールラリーのように1時間以上走った場所で、町との交流はほとんどないと思われる場所である。マサイは本来遊牧生活で定住しないのだが、ここでは援助でできた井戸のそばに定住している。そこに苗を配布してケア




を続けているサイトの一つである。村長が親しみ易い立派な方で、突然訪れた私達を歓迎してくれて伝統的な土の家の中も喜んで見せてくれた、私達にして見れば貧しい家だが、村長は誇りを持って自慢げに見せてくれた。更にここで生活している女の子たちの屈託のない明るさに、ここにはここの文化があり、生活がある、そしてそれを私達の価値観で判断してはならないのである。
 どこの援助かはわからないが、手押しポンプ井戸はこの村に取ってはすばらしい贈り物だったことがわかる。水くみは女の仕事と決まっている伝統的社会構造のなかで、女性を重労働から解放すると同時に衛生面での改善とこの場所が井戸端としてコミュニケーションスペースになっているのだ。帰る迄の間、いつも誰かが井戸を使っていて、人が集まっている、井戸一つの援助がこれほど大きな効果をもたらしている事は、まさにその村にあったきめの細かいニーズを知ることが、援助の基本であることがよくわかった。

6 母子家庭を救った小さな協力
インド洋に面したパンガニ漁業指導センターに漁具漁法青年海外協力隊員を訪問した。この漁業トレーニングセンターでは漁民を対象とした環境を守る漁法の指導、トレーニングを行っている。現地では、手軽に手に入るダイナマイトを使ってのダイナマイト漁法や毒物を使った漁法など、珊瑚礁の破壊や根こそぎ取ってしまう環境破壊の漁法が行われているため、それらに頼らない正しい漁法を指導しているのである。18歳から35歳までの漁師をここに受け入れて宿泊させながらトレーニングを行うのであるが、宿舎は汚く衛生面では最低の環境で、ここで指導していた最初の隊員は任期の間に6回マラリアにかかったそうで、現在の森島隊員もすでに2回かかっているほどだ、またトレーニングのエンジンや冷凍設備など満足に動くものはほとんどなく、指導船ですら船首のFRPが欠けていて波で海水が入って当然という状況であった。この理由はやはり政府からの予算がほとんどこない事で、結局自分たちで漁獲を販売するなどして利益をあげないと続けて行くことも難しい現状なのだろう。
ただ、この悲観的な状況のなかで森島青年協力隊員が現地の母子家庭の20歳の女性の生活を助けようと、休みを利用して日本円で1000円程度の出費で土で3メートル四方ほどの小さな喫茶店をつくり、彼女がそこで働いて月に公務員の給与と同じだけの利益をあげて彼女を自立させていた姿にさわやかさを感じた。援助とはお金や技術だけではなく、このような住民との密接な交流のなかで生まれた小さな協力も大きく評価されて良いのではないだろうか。

7母子の命を守る母子保健プロジェクト
母親と5歳以下の子供達をどうしたら死なないようにできるかがこのプロジェクトの目的である。妊産婦の30パーセント以上がHIVウイルスの陽性者であるという驚くべき状況だが、それ以上にマラリア、呼吸器病、下痢といった日本では考えられないような普通の病気での死者が志望原因のワースト3という現状ではエイズよりももっと基本的な医療、衛生の問題がやま積みということである。それだけに、母子保健のサービス拡充、技術の向上が望まれる。しかし国は農業、工業開発に力を入れているため保健衛生は最後に回される。そのため予算がほとんど回ってこないのがここの問題である。プロジェクトの代表的なサイトであるタンガの村で住民代表との話し合いを持つことができた、ここでの住民の訴えの主な物は、水道と井戸の改善、道路交通手段の改善、教育、教育設備の改善、健康、保健サービスの抜本的な改善と基本的で切実なものばかりであった。いわゆる社会インフラの整備が全くできていないのだ。
首都ダルエスサラームにある国立ムヒンビリ病院は母子保健プロジェクトの中心的なサイトである。ここでは医者の専門家を中心に小児科、一般病棟の診療と新たに臨床検査棟を建てて、検査に裏付けられた治療の普及を指導している。現地の医者の知識は日本の医者よりも高いのだが、国内に大学が一校しかなく医者の絶対数が全く足りない現状で、地方では医者の免許をもった者が診療するのはまれなのである。
 とはいえ、栄養不良が根底にあるため、この国では下痢ですぐに体重が下がり、命に関わる症状になる程で、生活改善などベーシックな問題を一つずつクリヤーしていく努力が必要である。しかし、今まで、無料だった診療費を去年から200シル(40円)の受付料を取るようになったそうだが、このわずかのお金すら払えない、貧困がおおきな原因である。日本の医師が診療を援助しているだけでは焼け石に水という感じでやはり、優秀な現地の医者やアシスタントメディカルオフィサーの数を増やして全国に配置するような方向とインフラ整備を同時に進める事が必要なのではないだろうか。

8 おわりに
最後に、全体を通して感じたことは、すばらしい自然環境と広大な自然保護区を持ちながら国民の生活は、GNPの一人当たりの額が日本円にして1万円ぐらいを推移しているいわゆる最貧国と呼ばれるタンザニアに援助国である日本はいったい何をする事が重要なのか考えさせられた訪問であった。巨額の日本の援助もこのタンザニアでは砂漠に水をまくようにあっと言う間に吸い込まれ消えていってしまう、いわゆる手の付けようがない状態といったら良いのだろうか、治安が悪くなってきているのも、貧富の差が拡大してきている事に起因するのではないだろうか。貧富の差を広げずに全体のレベルをあげていく事が必要なのだがそれはまさに難題である。
ダルエスサラームで民芸品のマコンデ彫刻を売っているマコンデ村に行ったとき、土産物屋の店主やぶらぶらしている人達と話していると、日本人と見るとコウノイケとかカシマとか言う言葉がでてくるこれは、日本の鴻池組や鹿島建設が市内で道路建設を請け負ったからなのである、その時土木労働者として雇われた事がよほど良かったらしく今でも忘れられないのである。そして彼らは、私達にも仕事をくれ、あるいは仕事を紹介しろと言ってくるのである。産業が発達しないので仕事がない、当然援助に頼る生活が続き自助努力は活性化されない、政府はまた新しいドナー国を探すといった悪循環が続いているのであろう。
このような悪環境の中で、モシの稲作プロジェクトをの様に着実に生活向上に役だった成果をあげたり、観光資源に力を入れなくてはならない状況の中で地味地に公園局を支えている稲見専門家や、どんなに国の予算がないとしても母子の命を守るためギリギリの活動を続けている母子保健プロジェクト、そして母子家庭の生活をアイデアと努力で支えた森島協力隊員等現地で援助に関わる人達が持ち得る能力を惜しみなくつぎ込んでいる姿には感動した。
もう一つ今回の訪問で忘れてはならないのは、ボランティアを取り巻く危険性である。レークマニュアラ国立公園からつぎの目的地モシに向かう途中、美しいキリマンジャロ山を望む道路脇に日本語の刻まれた石碑(写真12)がたっている。ここで1985年11月に、タンザニアでは忘れてはならない事故が起こったのである、青年海外協力隊員5人の乗った車が、ダルエスサラームに向かう途中見通しの悪い長い登りのカーブを登っていく途中、上から下りてきた巨大なタンクローリーに接触しそのまま引きずられ、全員がなくなったのである。地元では死のカーブと呼ばれている場所である。いま、やっとこのカーブをひろげて見通しのよいカーブにする工事が始まっている。理想を夢見て日本を遠く離れてアフリカの地で、目的を達せず亡くなった彼らはさぞ無念だったに違いない。
開発途上国での、ボランティアをとりまく危険は交通事故だけではなく数え切れない、その危険をおかしてもなお余りある充実感が得られるからこそ、彼らは志願するのだろう。彼らの努力がきっと近い将来大きく実を結ぶことを祈りながら、タンザニアを後にしたのである。

*この文章のダイジェスト版と内容に即したカラー写真を、国際研のホームページに掲載していますので、はせてご覧ください。
URLは
http://www2.baynet.or.jp/~saito/

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ガーナの中等教育について
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東京都立京橋高等学校 竹山 哲司

私は、西暦1990年7月から1992年7月までの2年間、青年海外協力隊員として西アフリカのガーナ共和国へ現職参加で派遣され、Volta州のAdidome SecondarySchoolで主に理科を教えてきました。日本とガーナの両方で教師として働いた経験から感じたことを、以下に述べます。

1.ガーナの1992年頃の学校教育
ガーナでは1987年から学校制度改革が始まり、現在は日本と同じように小学校6年・中学校3年・高等学校3年・大学4年で、他に職業学校や技術学校があります。小学校と中学校は義務教育ですが、4分の1の子どもはまったく学校に通っていません。小学校に入学しても途中でやめていく子どもも多く、卒業できる子どもは5分の3くらいです。9年間の義務教育の修了者は、4割にも達しません。15歳以上の識字率は、約6割です。中等教育の修了者は、20歳代人口の1割弱ですが、20歳前に卒業する生徒はあまり多くありません。家族の経済的な事情や教育に対する無理解などから、20歳を過ぎてから入学してくる生徒は珍しくありません。家業(おもに農業)の手伝いをしなければならない、年老いた祖父母や幼い妹弟の面倒を見なければならない、文房具代や実習費などを自分で稼がなければならない、学校教育に反対する一族の長老を説得しなければならないなどなど、高等学校に入るまでの障害は日本とは比べものにならないくらいたくさんあります。運よく入学できたとしても、成績が悪ければ親はいとも簡単に支援を打ち切ります。特に女の子に対しては、十分な教育を受けさせてやろうという意識を持たない親がたくさんいます。ガーナでは高校を卒業できることは、とても恵まれていることと言えます。
 官立の学校では原則として授業料は無料ですが、PTA会費・校舎整備費・学校図書使用料などは徴収されます。アディドメ高校では1991年は学期ごとに、教科書使用料1500,施設費500,PTA会費50,合計2750セディスを徴収していました。年間では、8250セディス(約3千円)です。参考として、一般労働者の月収は約2万セディス、教師は3万から5万セディスです。国民の大多数が農民であり、食糧についてはほぼ自給自足の生活を営んでいるのが一般的です。経済的な理由から子どもを学校に通わせない、通わせられない親がたくさんいます。ガーナ政府は、初代のエンクルマ大統領以来、教育にはずっと力を入れてきていますが、教育に振り向けられている国家予算は十分ではありません。生徒一人当りの政府支出は年間100米ドル以下でした。
 



新学年は1月から始まり、3学期制です。学期間の休業はたいてい、長期休業(8月から9月の6週間)、降誕祭休業(12月から1月の3週間)、復活祭休業(3月から4月の3週間)です。年間授業週数はほぼ全国的に、40週に統一されています。高校の学校行事には、新入生歓迎会、卒業生送別会、キリスト教の聖夜祭、球技大会(サッカー・バレーボールなど)、陸上競技大会、音楽祭、演劇祭、研究表会などがあります。中学校や高校では、生徒寮を持っている学校もあります。イギリスの影響でしょうか、伝統校や名門校のほとんどが、いまだに全寮制です。
 ガーナの高校にも、校則があります。一般的なものは、次の通りです。
*始業時間前に登校する 
 *授業時間内は許可なく校外に出ない
 *制服を着る 
 *無断欠席をしない 
 *食堂以外では飲食しない
 *校内で商売をしない  
 *公共物は大切に使う 
 *盗みをしない
*けんかをしない 
 *タバコを吸わない 
 *アルコール類を飲まない
 *大きなピアスや指輪をつけない   *化粧をしない 
 *パーマをかけない
 *異性の寮に入らない 
 *異性との緊密な交際をしない
 *教師を敬う

2.1991年からの新しい制度の高等学校
 新制度では、義務教育である小・中学校はもちろん高校でも、教育省発行の教科書が全国一律に全生徒に貸与されつつあります。アディドメ高校では1992年までに、英語、基礎数学、生物、基礎理科、生活技法、家政が貸与されていました。教科書の無償貸与は学制改革の一貫として行われていますが、全科目の教科書が生徒一人ひとりに行き渡るには、まだ時間がかかりそうです。教科書の貸与によって、授業内容が全国的に統一されます。Syllabusも整備され、卒業資格認定(GCE)試験の出題範囲を示すだけでなく、系統的に指導単元が配列されるようになり、単元ごとに指導目標や内容が示され、学習指導要領と呼べる体裁を整えています。しかし、科目相互の関連性はあまり考慮されていません。教育省発行の教科書とSyllabusの整備により、外国人ボランティアとして2年しか授業を持てない教師にとっては、教材研究が円滑に行えるようになり、授業を進めやすくなりました。
 新制高校は、普通教育ばかりでなく職業教育にも力を入れています。入学時から、文科、理科、商業、農業、家政、芸術などの系列に分かれて、専門的な科目を選択し重点的に学習することができます。必修科目は、国語(地域や民族ごとの言語)、英語(公用語)、基礎数学、基礎理科、農業、生活技法、体育で、すべての高校生が学習します。聖典の購読など宗教の授業は、ほとんどの学校が設けています。アディドメ高校が設けていた選択科目は、仏語・英文学・歴史・地理・政治・物理・化学・生物・経済・会計・経営管理・農業経済・作物栽培・牧畜・作図・陶芸・絵画・美術概論・被服・食物・生活管理・宗教です。
 学業成績の評価は、各学期末の定期試験(年3回)のほか、日常の学習状況や理解度・到達度を加味するように改善されつつあり、成績評価表の全国統一様式が作成されています。旧制度の評価は筆記試験偏重であり、この傾向は今でも相当根強く残っています。卒業後の進路は、GCE試験の結果ですべてが決まると言えるほどでした。教育省は日常の学習成果も評価するように指導していますが、現場での成績評価は、定期試験の点数がとても重視されています。点数偏重のためか、試験に対する取り組みは真剣さを通り越して、目に余るほどの不正行為がしばしば見られます。生徒自身に不正行為に対する罪悪感がなく、教師にすら希薄です。日本の失敗から考えても、結果だけで成績を評価するのではなく、学習の過程や到達度や日常の努力などの評価もぜひ必要です。何よりも、このことの必要性をより多くの教師が認識し実行することが、学制改革の成功のために重要だと感じました。
今回の学制改革の目的のひとつは、最長17年という長すぎた初等中等教育の弊害を除き、小学校から大学までを含めた全体の就学率の向上です。国内経済が安定してきていることもあり、義務教育を6年から9年に延長し、GCE試験を2段階から1段階に減らして、大学受験資格者の増加をねらいました。新制度の発足で高校への入学者は格段に増え、地域によっては倍増しました。高学歴であれば、高収入の職業に就ける可能性が高くなり、これが高校の魅力のひとつです。学歴が上がることはよいことなのですが、現在のガーナでは、大学卒などの高学歴に見合う十分な職はありません。このため雇用の機会とより高い収入を求めて、人材の国外流出が起こっています。人材の国外流出が引き起こす損失は、優秀な教師の不足など無視できないものです。国内産業の振興や雇用機会の創出などの政策が、早急に求められていると思います。
 新制高校の発足に先立ち、1991年1月にInservice Training Courceが科目ごとに、アクラのガーナ大学、クマシの科学技術大学、ケープコーストのケープコースト大学で開催されました。私はケープコースト大学で行われた基礎理科分科会に参加しました。ここで強く感じたことは、現職教師の再教育や研修の重要性と、教師養成制度の改善の必要性です。青年海外協力隊員としての活動中に私が出会ったガーナの教師は、教育に熱心で職業意識も高いのですが、やはり玉石混交で、休暇欠勤が多い教師や、向上心に欠け勤勉とは言い難い教師もいました。自分の家の農作業のために、学校での仕事がおろそかになっている教師もいました。この背景には、給料が安く、食糧は自給しなければならないという現実もあります。報酬、給料の問題も含めて、生活者でもある教師の勤労意欲をいかに高めていくべきか、これらが今後の重要課題でしょう。

3.アディドメ高等学校
 私の配属先であったアディドメ高等学校は、ガーナの東南部にあるヴォルタ州北タング郡の郡都アディドメにあります。郡内に3校ある高等学校の一つで、男女共学、通学制です。1985年に地元の有志によって地域経営校として設立され、新制高校への移行にともなって官立学校になりました。文科、理科、芸術、家政の4系列があり、1学年は4クラスです。
 運営資金は潤沢ではありませんので、生徒や教師が学校農場で作った豆類や野菜や唐辛子などの売上金も、貴重な財源です。運動場は、生徒の手作りです。校舎の補修や教室の椅子・机の修理も、生徒の仕事です。
 朝7時20分から朝礼と清掃が始まり、7時45分から2時までが授業時間です。時を知らせる音は、伝統のTalking Dramです。全校集会などの合図も、Talking Dramによる太鼓言葉です。1校時は40分で、月曜から金曜まで毎日8校時まであります。
 生徒は、アディドメ町内や近郊の村々から、徒歩や自転車で通って来ます。校長のフレッド・モーデー先生は、地域の有識者として人々の尊敬を集めており、前校長のニプロプ先生も、地域・氏族社会の長老として威厳を保っています。教師も生徒も保護者も学校に愛着を持っていて、強い連帯意識が感じられ、地域住民も学校教育に理解を示し協力的です。
 農村地域に位置しており、裕福な家庭の子どもはほとんどいません。家族の経済的な要因が、就学を阻害している傾向がみられます。学費を期限までに納入できない生徒が、半数以上に達することもしばしばでした。卒業までに3分の1から2分の1の生徒が、経済的な理由や学力の不足などで脱落して行きます。女子の場合、妊娠や結婚による退学者もいます。農村地域では、女性が高い教育を受けることに対して、いくらかの偏見があるように感じられました。アディドメ高校の女子生徒の比率は、全体では5分の1ですが、学年が上がるにつれて減っていきます。親や一族の長老は、成績が悪い娘は簡単に退学させてしまいますが、息子には何とか勉強させようと叱咤激励します。
 


 アディドメは、後背地として広がる農村の中心の町であり、住民には地域共同体・民族共同体の一員としての意識が濃厚です。地域が持っている教育力は健在で、子どもの躾は地域全体が担っています。長幼の序を重んじる傾向が強く、伝統的な権威は根強く残っていて、地域の教育力に大いに貢献しています。地域が果たす役割の大きさは、ぜひ日本でも見習うべきです。在来の伝統宗教や呪術の影響はもちろん残っていますが、キリスト教の影響も大きく、信徒である住民のほとんどは毎日曜日に盛装して教会に行きます。イスラム教徒も多く、金曜礼拝をはじめ日々のお祈りを熱心に行っています。宗教的な道徳心や敬虔さがもたらす教育的な効果は、無視できないでしょう。アディドメは官立高校ですが、毎水曜日の朝礼ではキリスト